アテナの封印がどういうものなのか――怒りが先に立っていたせいもあるが、氷河はこれまでその意味を深く考えたことがなかった。真摯に向き合ったことがなかった。 そして、実は、その束縛からどうしても逃れたいと願ったこともなかったのである――瞬に出会うまでは。 人と真の意味で交わることがなく、それ故に義務も責任も生じない壺に囚われた生活を気楽で心地良いものと感じていた部分も、氷河の内にはないでもなかったのだ――瞬を好きになるまでは。 氷河は、瞬の望みを叶えることが可能なのかどうかということが わかっていなかった。 それでも氷河は、瞬の望む通りの生活を始めた。 瞬の“命令”によって、アテナの呪いが解けたのかどうかはわからない。 それは、もう少し時間が経たなければ確認できないことだった。 だが氷河が、自分以外の人間も心というものを持っているのだという ごく当たり前の事実を認識し、それ故、人の心を思い遣ることができるようになったことだけは事実だった。 そういう人間になることで、もちろん、彼は幸福になった。 そんなある日。 星の子学園に毎年多額の寄付をしているグラード財団の総帥が学園に視察にやってきて、ちょうど瞬と一緒に星の子学園に来ていた氷河の姿に目をとめた。 「あら、あれは……」 彼女を案内していた園長が、子供たちにまとわりつかれている瞬たちを見やり、目を細める。 「あ、彼等は、ここの卒園生の友だちなんです。あの金髪の人は、近所の教会で通訳のお仕事をしてるそうなんですけど、すごいんですよ。英語やフランス語だけでなく、中国語だのロシア語だの――それから、ラテン語だのトカラ語だの、ほとんど死語みたいな言葉も話せるとかで、いろんなところから引っ張りだこだとか」 「まあ、有能な人物なのね」 「ええ。忙しいんでしょうに、ああしてお友だちと一緒に学園の子供たちの相手をしにきてくれて――。時々、訳のわからない魔法の呪文みたいな言葉を子供たちに教えていくので、困ってるんですけどね」 そう言って肩をすくめた園長の視線の先で、氷河はちょうど、学園の子供たちに魔法の呪文を教え込んでいるところだった。 「 Jag älskar dig ―― ヤー エルスキャル デイ と言うんだ。大事な言葉だから、しっかり覚えとけ」 「それって、どこの国の言葉なんだ? 何て意味?」 「スウェーデン語だ。あの国では、一生に一度もこの言葉を言わない人間もいるってくらい、重くて大切な言葉なんだぞ。意味は、『私はあなたを愛しています』――」 氷河は、質問してきた男の子にではなく、瞬に向かって、その言葉の意味を告げた。 告げられた瞬が、少しこそばゆそうな表情で頬を染め、勝手に自分たちの世界を作っている二人の横で星矢がうんざりした顔になる。 「今はとても幸せそうね。よかったこと」 少し離れた場所で 彼等のそんなやりとりを眺めていたグラード財団の総帥が 独り言のようにそう言って微笑み、学園から立ち去っていったことを、氷河も瞬も知らなかった。 Fin.
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