この世で最も清らかな人間――。 永遠にも近いほどの長い時を経て、冥界の王ハーデスの意識が覚醒した時、それはこの世に生を受けたばかりの赤ん坊だった。 人の世の汚れを知らないから子供は清らかである――そんな馬鹿げた理屈をハーデスは認めていなかった。 それは“清らか”なのではなく、ただ無知なだけ、まだ何者にもなっていないだけなのだ。 今この地上に“まだ何者にもなっていない”子供がどれほどの数 存在するものか。 おそらくは数百万単位で存在するそれらのものたちの中から唯一選ばれた子供。 神である我が身も 運命の糸を紡ぐ女神たちの支配下にあるのか、それとも、それを選んだのは運命を司る女神たちなどではなく、冥界の王たる己れの意思なのか。 『案外、余の凡俗な趣味なのかもしれない』 そう考えて、ハーデスは実体のない影のまま薄く笑った。 彼の器として選ばれた赤子は美しかった。 自らの上に神の眼差しが向けられていることも知らず、“まだ何者でもない”赤子は、五感と心で外界のあらゆる刺激を受けとめ、驚くほど急激に意識というものを形作っていく。 温かさ、冷たさ、痛み、悲しみ、喜び、寂しさ、そして優しさ。 生まれてまもなく その子供は両親を失い、到底恵まれているとは言い難い環境の中に投じられた。 その子供が、それでもしなやかな心を失うことなく成長していったのは、彼の兄の存在があったからだったろう。 光の世界にいる兄弟たちを蔑むことで誇りを保ってきた冥界の王と その子供は、少し――違っていた。 やがて仲間が集ってくる。 その仲間たちの中で、その子供は、少々泣き虫で、面立ちが素直な花のような風情をしている他は あまり目立たない、ごく普通の存在だった。 だが、ハーデスには唯一の特別な人間。 この小さな花のような子供に やがて全世界がひれ伏すのだと思うと、ハーデスは愉快でたまらなかった。 それにしても何と豊かな感情だろう――と、その子供に触れるたび ハーデスは薄闇の中で感嘆したのである。 こんなに様々の感情が、あの赤子――もう子供でもなくなっていたが――の小さな身体と心の中に収まっていることが、ハーデスには驚異にも思われた。 これほどに複雑な感情をその内に渦巻かせていながら、どうして清らかでいられるものかと、ハーデスはその子供の存在のあり方を疑いさえした。 だが、 頑として汚れに侵されない自身を保つことで、それは清らかであり続けた。 その一点に関して、ハーデスに選ばれた者は 他の人間とは一線を画していた。 その器――瞬――の複雑な心は、ただ一つの何かの支配下にある。 瞬の心を絶対的に律しているもの。それを何と呼ぶべきなのか――。 ハーデスはその力の名を知っているような気がした。 だが、それはハーデスの思いつく名前――愛、信頼、自尊心、意地等――のどれとも違うもので、ハーデスは結局、瞬を支配している力の名を思い出すことができなかったのである。 いずれにしても瞬の価値観の頂点にある その絶対の力が、いつまでも瞬を清らかなものに保ち続けていた――否、瞬を清らかなものに形成し続けていた。 憎しみ、怒り、嘆き――瞬は決してその中に負の感情を抱いていないわけではない。 むしろ、人一倍強かった。 だが、それらのものは瞬のあの絶対の力の下位にあり、その力は決して負の感情の暴走を許さない。 暴走しそうになると、どこからかやってきた涙がそれを止めた。 一時的に乱れることはあっても、瞬の心は基本的に規律正しく整然としていた。 普通の人間ならば、違う方向に受けとめ、あるいは屈し、あるいは諦め、そして汚れの要因になるはずの試練や障害。 瞬はそれらのものを微風のように受け流し、着々と清らかさを増していく。 ハーデスは満足していた。 まもなく、その時がくる。 この不思議に清らかなものと合一する日。 ほとんど うたた寝するように快いまどろみの中で、ハーデスはその日を夢想していたのである。 |