絵本を読み終えた瞬は、その物語を意味深げな示唆に富んだ非常に面白い物語だと思った。思いはした。 しかし、瞬には、この物語のどこがそんなにおかしいのかは まるでわからなかったのである。 納得しきれない面持ちで、瞬は膝の上の絵本のページから顔をあげた。 その時を待ち焦がれていたらしい星矢が、次いで紫龍までが、身を乗り出して その絵本の『おかしさ』を語り始める。 「この情けなさが氷河だろ!」 「いや、自分の手を失ったことを平気で忘れてしまえる迂闊さが氷河だ」 「俺は、こんな情けないことは言わん。弱音ばかり吐いて、いったい何なんだ、この男は!」 彼等の発言に、瞬よりも先に反応したのは氷河だった。 彼は、この物語の“おかしさ”を薄々感じ取っていたものらしい。 「まあ、おまえなら、『平気だ』だの『任せておけ』だの自信満々で言いながら、瞬に助けてもらうんだろうけど?」 「む……」 氷河が星矢の言葉に不快を感じたのは、はっきり言って、身に覚えがなくもなかったからである。 氷河は仏頂面になり、口をつぐんだ。 ここで怒りにまかせて反駁するのは得策ではないと、彼は賢明にも判断したのである。 なにしろ氷河の今日の敵は、彼の反駁を論破するだけの材料を豊富に持ち合わせているのだ。 黙り込んだ氷河の代わりに、今度は瞬が口を開く。 「僕、いくら氷河を助けるためでも、こんなに思い切りよく腕を切り落としたりなんか……これ、本当に子供向けの童話なの」 「確かにおまえなら、きっちりケリをつける前に、一応ぐずぐず悩むポーズをとってみせるだろうな」 「でも絶対切り落とす! 俺が保証する」 「……!」 随分な言い草だと思わないでもなかったが、その点に関しては、瞬も氷河同様 身に覚えがあった――ありすぎた。 しかし、ここで唯々として紫龍たちの評価を認めてしまうことも、瞬にはできなかったのである。 「紫龍たちが僕と氷河のことをどういうふうに思ってるかは知らないけど、僕たちはこんな――」 「だいいち、俺は何があっても瞬を忘れたりしない。故にこの話は成立しない」 氷河が、瞬の言葉をさえぎるようにして断言する。 命を懸けた闘いを共に闘い、互いに癖や性格までも熟知し合っている仲間に、自分たちの言動に関することで反論しても無駄だということを、氷河はきっちり自覚していた。 彼等のからかいを封じようと思ったら、もっと根本的なこと――すなわち、彼等の仮定の大前提――を覆さなければならないのだ。 氷河の目論見は一見成功したかに見えた。 氷河と瞬の癖も性格も価値観も熟知している星矢と紫龍ではあったが、さすがの彼等も、「忘れない」と断言する氷河に「いや、おまえは忘れるだろう」と言い切るだけの根拠は有していなかったのである。 しかし。 氷河が勝利を確信したまさにその時、二人の前に、突然 思わぬ伏兵が現れた。 とはいえ、それを“伏兵”などという言葉で言い表わすのは失礼なことである。 氷河たちの前に現れた新たな敵は、“兵”ではなく“大将”、否、青銅・白銀・黄金の全聖闘士を統率する大元帥その人だったのだ。 真打ちは遅れてやってくるもの――と言わんばかりの貫禄を全身に漂わせ、彼女は微笑みながら氷河に告げたのだった。 「じゃあ、試してみましょうか?」 ――と。 「試す?」 「香りを嗅ぐと、その人のいちばん大切なものを忘れさせてしまう花が、聖域にあるわよ」 「…………」 こともなげに言ってのける沙織の前で、氷河の表情が強張ったのは、至極当然のことだったろう。 そもそもなぜそんなものが―― 「なぜ そんなものが聖域にあるんですか」 半ば以上責めるような口調で氷河はアテナを問い質したのだが、彼女は――彼等の女神は――氷河の睥睨をものともせずに、その顔に春風のような微笑を重ねた。 「神というものはね、どこぞの黄金聖闘士みたいに五感剥奪なんてことをして自分の力を誇示し、その上で敵を自分の意に従えようなんて、そんなまだるっこしいことはしないの。もっとてっとり早く、直接 心を操るわ」 「…………」 アテナがそんな てっとり早くも卑怯な手段に訴えることはないとわかっていても、恐ろしいものは恐ろしい。 ふいにアテナの聖闘士たちの背筋をひやりと冷たいものが通りすぎていった。 「最も神に近い男も所詮は人間、神ではないというわけか。人間と神との間には越えることのできない嘆きの壁がそびえ立っているというわけだな」 「案外俺たちも沙織さんのマインドコントロール受けてるんじゃないのか」 「冗談にならないから、やめろ」 この場でのやりとりを無理に笑い話にしてしまおうとした青銅聖闘士たちに、怪しげな笑みの余韻を残して沙織が退室していく。 神のいなくなったラウンジに漂う不穏な空気の中で、瞬は、この上なく不安な目をして小さく呟いた。 「沙織さん、まさか本気で試してみようなんて考えてないよね?」 「ははは、沙織さんに限って、そんなことは――」 言いかけた氷河の語尾が、妙に力無くしぼんでいく。 アテナに逆らう敵を屈服させるためになら、彼女は決してそんな花の力になど頼ったりはしないだろう。 だが、娯楽のためとなれば――沙織は“やりかねない”神だった。 「だ……大丈夫だろう。香りを嗅ぐと忘れる――ということは、それは生花でなければ力を発揮できないものだということだ。大抵の国では、土や土のついた植物を国外に持ち出すことは法律で禁じられているからな。ギリシャなんぞは特に遺物・骨董品の国外流出を阻止するために、国外への持ち出し検査が厳しいはずだ。沙織さんがその花を日本に持ってくることはできない。まあ、聖域に行った時には要注意だが」 「うん……」 法律を根拠に自分たちの身の安全を主張する氷河に頷き返しながら、それでも瞬は、神に人間の定めた法律が有効なのかどうか、大いに不安でならなかった。 |