「僕、よくわからないんです。氷河が僕にどうしてほしいと思っているのか。僕は、僕こそが氷河に釣り合うだけの価値のない人間だと思っていて、それを負い目に感じていたのに、なのに氷河は……。氷河は僕に、僕が氷河のおまけでいることを望んでいるんでしょうか」 沙織は最初から、氷河が彼自身を飾り立てている訳を承知していた。 瞬に相談を持ちかけられた沙織は、彼女の可愛い聖闘士に、にこやかな微笑を向け、そして、僅かに口許を歪ませた。 「氷河は本当はあなたをどこかに閉じ込めておきたいと思っているの。でも、そんなことはできないから、外に出る時はあなたをいつも側において、人の目があなたに向かないように自分を飾り立てていたわけ。氷河は、そんな自分を道化だと思っていたでしょうね」 そう言ってから、沙織は薄い思い出し笑いをした。 「私、氷河がカミュのあの技を――氷の棺を作る技を会得した時には、しばらく心配で氷河を見張っていたのよ。彼があなたを氷の棺に閉じ込めるなんて、馬鹿なことをしでかさないように」 まさかアテナにそんな心配までさせていたとは。 瞬は恐縮して身体を縮こまらせ、いっそこのまま路傍の石ころにでもなってしまいたい気持ちになった。 残念ながら、瞬はそんな特殊な力は持ち合わせていなかったが。 「……僕がどこかに閉じこもっていればいいんですか」 「そんなことはしちゃだめ。氷河がせっかく、それだけはしてはいけないことだと考えて自制してくれているんだから。そこも氷河の健気なところね」 「…………」 『氷河は健気だ』というのが沙織の口癖で、これまで瞬は、星矢がそうだったように、彼女の言葉の意味を理解できずにいたのだが、今ならその言葉の意味がわかるような気がした。 世界の王様でいるために、自らを偽りの羽で彩るイソップの黒い鳥。 輝く漆黒の羽を持ち、そのままでも十分に美しいあの物語の鳥が本当に望んでいたものも、実は鳥たちの王になることなどではなく――他の場所にある別の何かだったのではないかと、瞬は思ったのである。 氷河が本当に欲しいものは――それが瞬の推察通りのものなのだとしたら――それは既に彼の手の中にあるのだと、彼に知らせるためにはどうしたらいいのか。 当惑しながら瞬が小さな溜め息を洩らした時、氷河が沙織の書斎に入ってきた。 「沙織さん。例のディオールに追加で、クロノダイヤの時計を――瞬」 瞬がその場にいるのを認め、氷河が瞳を見開く。 氷河の登場に気付かぬ振りをして、沙織は瞬に告げた。 「氷河は勘違いをしているのよ。あなたがそんな目になるのは、氷河を見詰めている時だけなのに、それがわかっていないの。うぬぼれてしまえずにいるのね」 「氷河……」 瞬が 瞬のその瞳に氷河は驚き、見入り、そして無言でいた。 「あなたは――いいえ、人は誰でも、一人だけでは美しいものにはなれないし、魅力的なものでいることもできないわ。当然でしょ。なのに、お馬鹿さんの氷河は、そんなことすらわからないの」 言いながら、沙織はあくまでも氷河を無視し続ける。 「氷河もね、顔の造作がいいだけだったら、生意気な口をきかない人形の方がずっとましだと思わない? 彼が人を惹きつけるのは、いつも誰かさんのことを思っているからで――まあ、人間の官能的な魅力というのは、そういうところから生じるものなのだと思うわ」 『あまり私には縁のない種類の魅力だけど』と、沙織は付け足すように呟いた。 「人が魅力的なものになれるのは、人が心というものを持っているからよ。人を 愛されるものにするのは、その人の中にある他者を愛する心で、誰も愛していない人間には人を惹きつける魅力もないし、本当に愛されることもない。あなたを思っていない氷河なんて、高価なスーツをかぶせただけの丸太ん棒と同じよ。全然魅力的じゃない。どんなに飾り立てても、きっと誰も振り向かないわ」 氷河が人の注目を集める理由が“それ”だとわかっていたら――氷河の心を信じていられたら――自分はあんな卑屈な思いに悩むこともなかった。 瞬は、自分の愚かさに初めて――そして、やっと――気付いた。 「二人がそれぞれに自信を持って、お互いを信じていれば、それだけで解決することよ。高い服なんかで飾らなくても。もちろんハリウッド映画なんかに出演しなくてもね」 氷河は変わってしまったと、彼の言動の表面だけを見て勝手にひがんでいた自分自身を、瞬は深く悔やんだのである。 唇を固く噛みしめた瞬の様子を確かめてから、沙織は初めて氷河に向き直った。 「で、どうするの」 「とりあえず、ディオールのスーツと時計はいらない」 沙織に問われた氷河は瞬を見詰め、そして見詰め返されていた。 二人に無視された形になった女神が、苦笑を浮かべ頷く。 「今だけで100着はあるでしょう、スーツ。あなたの“健気な馬鹿”の治療費を、私がいくら払ったと思っているの」 「他人の目を瞬から逸らすことより、瞬の目を俺に向けさせるための努力をする方が有意義そうだ。俺たちの間には、他の誰も入り込めないのだと、瞬の目を見たら誰にでもわかるように」 「お利口さんになったこと。じゃあ、フレミング監督には、私から断りを入れておくわね。瞬はどうやら、映画館のスクリーンの中じゃなく、大切な人の目の中にだけ住んでいたいようです……って」 「沙織さん……」 氷河の瞳に見入っていた瞬が、慌てて沙織の上に視線を戻し、申し訳なさそうに肩をすくめる。 「大丈夫よ。いざとなったら、私があなたの代わりにスクリーンデビューしてもいいし」 沙織はそう言うと冗談めかして笑ったが、瞬は、世界中の人間の目に触れるスクリーンは、“誰か”ではなく“すべて”を愛している女神にはふさわしい舞台なのではないかと思ったのである。 そして、瞬には、瞬が望む青い色をした舞台があった。 そこに勝る人生の舞台はなく、氷河と瞬は今、彼等が望む最高の舞台に立っていた。 Fin.
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