氷河に瞬が必要だったように、瞬にとっても氷河は必要な存在だったらしい。
ふたりは寄り添い支え合うようにして、ふたりの生活を続けた。

そうして1年。10月も終わりかけた、ある秋の夜。
氷河が瞬の手にじゃれていた時に、ふいに瞬が涙を一粒零した。
それは本当に突然のことで、瞬の上にいったい何が起きたのか、氷河には全くわからなかった。
たった今まで、『今夜はハロウィンだから』と、瞬はカボチャの形をしたクッキーを楽しそうに氷河の口に運んでくれていたのに。

季節が悪いのだと、氷河は思った。
一人でいることが切なく身に染む季節。
深まる秋、賑やかに木々を彩っていた葉は散り、虫の鳴き声は途切れがちで、今にも消え入りそうである。
それでなくても瞬は、感傷的なほど繊細な感受性の持ち主だというのに。

氷河が『俺が側にいる』と知らせるために瞬の手に身体を擦り寄せていくと、瞬は氷河を抱きしめて微笑んでくれた。
が、その微笑みはひどく寂しそうで、氷河まで悲しくなった。

氷河が側にいるのに、瞬はなぜ寂しいのか。その理由を、氷河は知っていた。
(俺が人間じゃないから――)
どれほど瞬に微笑んでもらいたいと願っても、氷河は瞬の頬を舐めたり、尻尾を振ってみせることしかできない。
氷河は、言葉で瞬を慰めてやることはできず、また、瞬を抱きしめてやることもできなかった。

「ごめんね。大丈夫だよ」
そう言って氷河の頭を撫で、瞬はキッチンに立った。
一人分の夕食の食器の後片付けをするために。
氷河はキッチンには足を踏み入れてはいけないことになっていたので、先にリビングに行って、瞬が仕事を終えるのを大人しく待つことにした。

玄関を挟んだ向こう側にあるリビングに行くために廊下に出た氷河は、そして、玄関に見知らぬ人間が立っているのに気付いたのである。
長い髪と細い身体、人間の姿をした白い幻影のような女性。
氷河がその言葉を知っていたなら、『仙女』のようだと思っただろうが、氷河はあいにく その言葉を知らなかったので、彼女を『幽霊』のようだと思った。

来客を告げるドアのチャイムは鳴らなかった。
いったい彼女はどこから入り込んできたのか。
氷河は、その白い不法侵入者に向かって吠え立てようとしたのだが、なぜかそうすることができなかった。
動かせないわけではないのだが、身体が凍りついたように強張っている。

「あなたを人間にしてあげましょうか?」
白い幽霊が口を開く。
氷河には、彼女が人間の言葉を喋っているのか、犬の言葉を喋っているのかがわからなかった。
どちらにも聞こえたし、どちらでもないようにも聞こえた。
ともあれ、彼女が犬である氷河と話ができるのは事実だった。

「俺を人間に?」
「ええ。ただし1年間だけ。その1年の間に、あなたが人間を一人幸せにすることができたら、あなたはそのまま人間の姿で一生を過ごすことができるわ。でも、それができなかったら、来年の明日――万聖節の日が暮れた瞬間に、あなたは犬の姿に戻って死んでしまうの。どう? 試してみる勇気はあって?」

もしそれが戯れ言でなく実現可能なことなのであれば、もちろん氷河は人間になりたかった。
しかし、そんなことができるはずがない――ただの人間に。
「おまえは誰だ。ここは瞬と俺の家だぞ」
「今夜はハロウィンなのよ。そして、明日は万聖節。すべての聖人セイントを祝福する日。不思議なことが起きても――それこそ不思議じゃないわ。神様が私に、今夜一晩だけ自由をくださったの」

「セイント? おまえはそのセイントとかいうやつなのか」
「ちょっと違うわ」
首を横に振って、彼女は氷河の方に手を差し出した。
その手の上に、瞬がドッグフードを買う時にいつも使うカードに似たものが乗っている。
「昔話なら、永遠に金貨が出てくる魔法のお財布というところなのだけど、昨今はカード一枚で片がつく世の中になっているようね。ムードのない」

「これは何だ?」
「1年の間だけ、どれだけ使ってもなくならないカードをあげるわ。これで、あなたは人間として生きるのに必要な家や食べ物を手に入れられるでしょう。あなたは自分の生活のことは心配せずに、ただ、誰かを一人幸福にしてあげればいいの。そうすれば――」 

「人間になれる」
氷河は噛みしめるように、自らの願いを口にした。
人間になれば、瞬を抱きしめてやることができる。
そうすれば、あの一人ぽっちで寂しがりやの瞬を心から微笑ませてやることができるに違いない。
瞬を誰よりも愛している“人間”がこの世に存在することを知ったら、きっと瞬は。

氷河の心臓は早鐘を打ち始めた。
そんな氷河に、白い幽霊が厳しい目をして言う。
「犬のままでいれば、あなたはあと12年生きられることになっているのよ。そして、この試みに失敗すれば、来年の明日――11月1日の夕暮れに、あなたは死んでしまう」

人間を一人幸せにする――。
氷河には、それは さほど困難な仕事とは思えなかった。
幸せというのは、瞬に抱きしめられた時の気分を言うのだろうと、氷河は思った。
至極簡単で、単純なことである。
そして、氷河は、瞬を抱きしめたかった。

「本当に、人間になれるのか」
「ええ」
氷河のその言葉を彼の決断と判断したのか、白い幽霊が、その細い指先を氷河に向けて くるりと軽く回転させる。
途端に、氷河の身体は変化した。






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