「寒くありません? 僕の家、すぐ近くなんです。よかったら、お茶でも――」
瞬の声で、氷河は我にかえった。
今日初めて会った、どこの馬の骨とも知れぬ男を我が家に招こうとする瞬の警戒心のなさは 今回に限り許すとして、氷河にそう尋ねてくる瞬の瞳は、幸福そうに明るく輝いていた。
そして、瞬は、氷河があれほど望んでいた笑顔を、氷河に見せてくれていた。

氷河は瞬のために何もしていないというのに、瞬は今、とても幸福そうだった。
氷河には そう見えた。

人を幸せにする唯一の方法は、その人に本当に幸せになってほしいと願うこと以外にはないのかもしれない――と、氷河は思った。
そして、そう思ってくれている人間が自分の側にいることに気付ける者だけが幸せになれるのかもしれない、と。

これまで氷河が出会った人間たちの幸福を、氷河は心底から願っていなかった。
彼等が本当に求めているものが何なのか、真剣に考えもしなかった。
氷河が彼等を幸福にできるわけがなかったのだ。
彼等が他人に蔑まれるような人間なのではない。
あの浮浪者を見て見ぬ振りをした者たちとて、得体の知れぬ危険に身をさらすことで家族に心配をかけることを恐れただけだったのかもしれない。

瞬といれば、氷河は、人間というものをそんなふうに思うこともできた。
瞬の側にいられさえすれば。

「ご迷惑ですか……?」
無言で瞬を見詰めていた氷河を、瞬が不安そうな目をして見上げてくる。
それこそ、ただ一人の大切な人に見捨てられることを恐れている子犬のような瞬の瞳。

「いや」
氷河は、首を横に振った。
「尻尾があったら、それを千切れるほど振りたいくらいに嬉しい」
氷河の返答を聞いた瞬は、安堵の息を洩らし、そう答えた氷河よりも嬉しそうに笑った。
そして、氷河に重ねて尋ねてきた。
「僕、まだお名前を伺ってませんでした。お名前……何ておっしゃるの?」

『氷河』と答えたら、瞬はどんな顔をするのだろう。
そんなことを考えながら、氷河はもう一度、これ以上ないほどに幸福な思いで、瞬に笑顔を向けた。






Fin.






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