翌日、朝食を済ませるや一人でどこかに出掛けてしまった氷河が城戸邸のラウンジに戻ってきたのは、もうすぐ昼になろうという時刻だった。
「元気を出せ。おまえの好きなノリエットのセシルを仕入れてきたぞ」
心弾むことのひとつもなく その日の午前を一人で過ごしていた瞬は、突然ケーキの入った箱を眼前に突き出されて、目を丸くしたのである。

氷河は落ち込んでいる仲間をこんなもので慰めようと考えて、朝から外出していたのだろうか――?
自分は、氷河に、臍を曲げている子供か何かと思われているのかと考えると、瞬は少しばかり――それこそ臍を曲げたい気分になってしまったのである。

だが、それは、ケーキ屋の甘ったるい匂いが嫌いで、瞬がケーキを購入する時にはいつも店の外で待っている氷河がわざわざ買ってきてくれたものである。
氷河も、ケーキそのものが沈んでいる人間の気持ちを上向かせることを期待して そんなものを買ってきたのではないだろう。
「うん……」
瞬は、氷河が自ら出向いて彼の苦手なものを買ってきてくれたことに気持ちを慰められ、彼に素直に頷いて、彼が差し出したものをその手に受け取ろうとした。

それを、ふいに瞬と氷河の間に割り込んできた星矢の手が素早く奪い取る。
「あ……!」
掛けていたソファから腰を浮かしかけた瞬に、星矢は得意げな笑みを向けてきた。
そして、言った。
「相変わらず甘いな、瞬は」
――と。
「この世界は食うか食われるか、弱肉強食の厳しい世界なんだぜ。殺さなければ殺される。瞬はいつも甘いんだよ」

「星矢……」
確かに自分の手にあったものを ふいに横から奪われてしまった瞬が、奪った者の名を呟き、呆然とする。
星矢を咎めもせず、笑いもせず、奪われたものを取り返そうともせずに、瞬はただ無言で空になった自分の手の平を見詰めているばかりだった。 

星矢はもちろん、『甘い』も『食うか食われるか』もケーキにかけたシャレのつもりで口にした。
さほどの意味を込めて言ったわけでもないし、皮肉や非難のつもりでそんな言葉を発したつもりもない。
瞬は少々怒り、そして笑いながら、ケーキの奪還に挑んでくるものと、星矢は思っていた。
が、瞬は、星矢が期待していた行動に出てこなかった。
力なくソファに座り込み、いつまでも無言で呆然としているばかりである。

「瞬……?」
さすがに瞬の様子がおかしいことに気付いた星矢が、そろそろと様子を伺うように瞬の側に戻ってくる。
「瞬、そんなマジになるなよー」
星矢にそう言われると、瞬は顔を俯かせた。

「悪かった。返す。氷河がおまえのために買ってきたケーキだもんな」
少し困惑を含んだぎこちない笑みを無理に作って、星矢は、手にしていたケーキの箱を瞬の前に差し出した。
それから、空いている方の手で俯いている瞬の頭を軽く一度小突き、瞬の顔を覗き込んだ星矢は、それが今にも泣き出しそうな様相を呈していることに気付いて、ぎょっとしてしまったのである。

「瞬……?」
「生きていてと――」
「え?」
「生きていてほしいと思って、何が悪いの! どうして彼は死んだ方がいいなんて言うのっ!」

わけのわからないことを突然大声で訴えられて、星矢はあっけにとられてしまったのである。
途端に氷河が、瞬の手から星矢がケーキの箱を奪い取った時よりも素早い動作で 星矢を押しのけ、瞬の隣りの場所に割り込んでくる。
そうして彼は、一度大きく息を吸い吐いてから、まるで泣いている子供をあやすように優しい口調で、瞬に尋ねた。

「彼とは誰だ」
「誰もかれも みんな……。僕の前に敵として現れる人はみんな、僕におんなじことを言う。どうして――」
星矢には――おそらく氷河にも――今ひとつ意味の通じないことを呻くように言い、瞬は、その瞳からぽろぽろと涙を零し始めた。

こうなるともう、星矢はお手上げである。
「わりぃ。氷河、頼む」
自分が引き起こした(らしい)事態の収拾を図ることを早々に放棄して、星矢は、ケーキの入った箱を手にしたまま、瞬の側から離れるしかなかった。






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