「これを食べられる千載一遇の好機だったのに」
長いキスのすぐあとに 笑えないジョークを言った氷河を、瞬はきつく睨みつけた。
アテナ殺害と聖域の支配を目論んだ北欧の脅威は消えうせ、地上には元の平穏が戻ってきている。
だからアテナの聖闘士も、そんな戯れに興じていられるわけだった。

「少しは反省して」
「悪かった」
いつになく素直に謝罪してくる氷河を、瞬はそれ以上責めることができなかった。
自分にはその権利がないのだと気付いた瞬が、彼の胸の下で身体を縮こまらせ、抑えた声で呟く。
「僕は氷河を倒せなかったね……。僕は――人には結局、世界の命運より、たった一人の大切な人の命の方が重いんだろうか……」

瞬の伏せられた瞼の上を、氷河の唇がからかうように掠めて過ぎる。
そのあとで氷河は、存外に真面目な言葉を吐き出した。
「おまえは、本当の敵を見付けて、それを倒そうとしたじゃないか。俺こそが、あんな男の術中に落ちるべきではなかったんだ」
彼の反省の弁を聞き、少し切なげな笑みを、瞬は作った。
氷河という人間の中にある“心”がどんなものでできているのか――教主ドルバルの言っていた言葉を思い出して。
「おかげで、紫龍にはいまだに嫌味を言われるし、頭を打って元に戻るなんて、まるで道化だと星矢には馬鹿にされるし、散々だ」
それは、だが、言われても仕方がないだろう。
その件に関してだけは、瞬も、星矢と紫龍の味方にまわるしかなかった。

「勝つのが好きな氷河としては屈辱?」
「昨日の敗北は、明日の勝利の糧にするさ」
「うん……」
星矢以上に氷河は、もしかしたら前向きな人間なのかもしれない。
瞬は氷河の言葉に安堵し、頷いた。
それから、彼の背に腕をまわし、金色の髪に唇を埋めるようにして、彼に告げる。

「もし、僕がミッドガルドみたいなことになったら、その時は――」
「その時は、特大の氷の塊りを作って、おまえの頭にぶつけてやる。あれは効くぞ。一発で目が覚める」
「もう……! 少しは真面目に――」
「――真面目に愛し合うことにしよう」
そんなセリフを、本当に真面目な顔で言うから、氷河はたちが悪い。
瞬は改めて彼を叱責しようとしたのだが、再び瞬の唇に重ねられた氷河の唇が それを妨げた。
「ん……」
氷河の手の平が瞬の喉に触れ、肩をなぞり、更に下方におりていく。
氷雪の聖闘士の指先の熱さに、瞬は身体を震わせた。
今のうちに――今夜のうちに、その時のことを考えておいた方がいいような気がする。
そんな気がして、だから、瞬はいつものように 彼の熱さにすぐに酔ってしまうことができなかった。

「何があっても、勝つのはおまえの心だ。大丈夫」
氷河の手は、今は瞬の胸の上にある。
氷河の愛撫にときめくことをためらっている瞬の心臓が まだ平時と同じ速さと落ち着きを保っていることに気付いたのか、氷河の手はその場所から動こうとしない。
「僕はそんなに強くない。すぐ迷うし、いつも悩んでばかりだし――」
「だから強いんだろう。おまえの心はいつも生きている」

あれだけアテナと仲間たちに迷惑をかけた白鳥座の聖闘士が、何を根拠にしてこれほど自信満々でいられるのかと、瞬は呆れてしまったのである。
だが、氷河にそう言われるとそんな気がしてくるのも事実だった。
心と身体が ふっと軽くなり、氷河の愛撫を愛撫と認識できるようになった瞬の心臓は、やがて その鼓動を早め始めた。

氷河が勝つことにこだわるように、自分がこだわっているのは生きること、その生き方なのだと思う。
何よりも、仲間たちに、アテナに、氷河に――彼等の心に生きていてほしい。
だからこそ、もし その時が来たら、自分がどうするのかが、瞬にはわかるような気がした。
そうすることが自分の心を生かし続けることになり、そうすることで自分の心が生き続けられるのなら、自分は迷うこともしないだろう。

氷河と心を溶かし合わせる行為に身を任せながら、それでも その時が永遠に訪れないことを、瞬は願っていた。






Fin.






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