「で、先月はさ。家中のみんなが寝静まった頃に、何か白い影みたいなのが現れて瞬を連れていこうとしてたんだ。瞬はぼーっとしてて、ふらふらと付いていこうとしてんの。俺、びっくりして――」
「腰を抜かしたか」
「大声出して、追い払った」
「無粋な」
「あの影みたいな野郎もそう言った」
「野郎……?」

『野郎』と言うからには、月から かぐや姫のもとに降り立ったのは天女ではなく男性だったらしい。
星矢がそんな独創的な物語を作れるほどの夢想家ではないことを知っている氷河は、にわかに彼の言に信憑性を覚えることになった。
月の世界からの使者――ではないにしても、誰かがかぐや姫をさらいにやってきたのは事実かもしれないと、氷河は思ったのである。

「なら、今夜も大声で撃退すればいいじゃないか」
「先月に懲りて、耳栓準備してくるかもしれねーじゃん」
実に現実的ではあるが、それは氷河にはわからない理屈――わかりたくない理屈だった。
月の世界から地上に降り立った男に、そんな無風流などあってはならない。
星矢にはどこまでも風雅の心が欠けていると、氷河は嘆息したのである。

「なぜ俺が。だいいち、俺は今夜は久我の内大臣の姫との約束がある。歌を4首も送って、やっと取りつけた約束だ」
「断言する。そんなお姫様より瞬の方が可愛い」
「……」
星矢が嘘をつけるような人間ではないことを、氷河はよく知っていた。
比較対象である内大臣の姫を星矢が知らないことを差し引いても――そんなものは氷河も知らなかったが――星矢にそう断言させるほどの容貌を 今かぐやが持っていることは疑いない。
いずれにしても、ここまで話を聞かされて、かぐや姫への氷河の関心は否が応にも高まっていた。

「仕様がないな。ちょっと待て。内大臣の姫には断りの文を届けさせることにしよう」
脇にあった文箱を手許に引き寄せ、暗い色の紙を選んで、氷河が約束反故の歌を一首したためる。
自分の願いが聞き入れられたことを知った星矢は 嬉しそうに身を乗り出して、氷河の書いた文を覗き込んできた。
「よく、そうさらさら書けるな」
「たしなみだ。おまえもそろそろこれくらい覚えておいた方がいい歳だろう」
偉そうに言ってはみたが、実のところ、この手の歌には決まりきった型があって、中に軽く季節を盛り込むだけで事足りるのである。
無論、そんな“本当のこと”など、氷河は懇切丁寧に説明する気もなかったが。

「俺、そーゆー面倒くさいことは嫌いなんだ。何て書いたんだ?」
「今夜は月の障りで行けなくなった」
歌を読まずに大意だけを、氷河は伝えた。
それを聞いた星矢が、微妙に顔を歪める。
「それ、女が使う手なんじゃないか? 誤解されるだろ」
「細かいことを言うな。行くぞ」
呼びつけた舎人(とねり)に文を手渡すと、氷河は意気揚々と立ち上がった。
本音を言えば、もうとっくに氷河の関心は内大臣の姫の上からかぐや姫の上へと移ってしまっていたのだ。

「月が出るまではまだ時間があるぜ?」
つい先ほどまで出掛けるのを渋っていた氷河の性急な言葉に、星矢は目を剥いてしまったのである。
まだ日は高い。
庭の木々は、今日 最も短い影を池の水面に落としている。
しかし、氷河はそんなことをいちいち気にする男ではなかった。
「姫の顔は日の光で確認しないと騙されるからな」
そう言って、彼は、彼の又従弟を急かしたのである。






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