「ハーデス様?」
ハーデスは、相変わらず、影でもあるそのれ物の口許に笑みを刻んでいた。
パンドラには見知ることのできない瞬の記憶を、彼女に語るような親切もしない。
瞬の宝石のような記憶の一瞬を、彼は余人に知らせたくなかったのだ。
彼はそれを独り占めしていたかった。

「なるほど。あれらが欲する神とはそういうものか」
ハーデスは、彼ひとりだけで頷き、彼自身に向かってそう呟いた。
パンドラが、首ではなく瞳をかしげるようにして、冥界の王の姿を見上げる。

「普通は、人はそのような神を怖れるものだ。罪を犯さずに生きていられる人間というものは自然界には存在しない。己れ自身の真実の姿など、誰も恐ろしくて見ることはできないし、見たくはない。真実の姿を映す神の前などに立ったら、人は目を伏せ俯くだけだ」
なぜ瞬は、そんな神を求め 恐れない心を持ち得るようになったのか――それが たとえ自らを知り尽くし支配さえしている恋人の言葉であったにしても――。
ハーデスはその謎の答えを求めて、更に瞬の記憶を辿った。
瞬の目を通して世界を見、瞬の心を通して瞬の考えを知る。


――瞬は、氷河が敵を倒す様を見ていた。
自らがその罪を犯しているわけではないのに、瞬の心は痛み、傷付き、血を吐いている。
だが、瞬は、その様をまっすぐに見詰めていた。
瞬は、目を逸らすわけにはいかなかったのだ。
同じ罪を、自分も犯していることを知っていたから。
そして、その罪を是とするほどに、仲間の生を願っていたから。
だから瞬は、氷河を許すしかなかったのである。


「あの者が――瞬が、自らの罪を素直に認めることができるのは、同じ罪を犯している仲間がいて、その仲間の心を信じていられるから――であろうか」
自問するように、ハーデスは虚空に向かって呟いた。
瞬自身が思い至っていないことまでは、瞬の意識や記憶を辿ることのできるハーデスにも知り得ない。

「自分たちの犯した罪を自ら許し、神の前で畏れ入らないのは、自らの罪の深さに思い至っていない愚か者か、ただの増上慢なのでは?」
もしかしたら的外れなことを言っているのではないかという不安がないわけでもなかったが、パンドラは尋ねずにはいられなかった。
ハーデスが、言下に彼女の意見を否定する。
「あれは――瞬は違う。あれは、自らの罪を知っている。それでも、神の前に素直に立つ。罪を裁かれることを望んでいるからだ――罪を犯しても汚れていないからだ」

罪を犯して汚れないというハーデスの言葉は、パンドラには理解し難いものだった。
罪とは、それ自体が汚れているものである。
少なくともパンドラの認識では、罪とはそういうものだった。
罪を犯した時点で人は汚れるのだ。
生きている人間の世界には、人は生まれた時から罪を負っているとする馬鹿げた宗教まで存在する。
自らを汚したいという欲望をすら抱いているのではないかと思うほどに、人は罪を求めているのだ――とさえ、パンドラは思っていたのだ。

「やはり、それは、仲間の存在が大きいようだな。仲間の罪を認め許すためには、同じ罪を犯している自分自身も許さなければならない。自らを許さなければ、仲間を許すことはできない」
「同輩の罪を許すために自らの罪をも許す――という理屈は詭弁じみておりましょう。その卑怯な甘えこそが汚れなのでは」
「瞬が汚れもせず、卑怯者にもならずに済んでいるのは、敵の罪も等しく受け入れ許しているからであろう――ひいては、すべての人間の罪を」

それでも罪が罪であることに変わりはない――としか、パンドラには考えようがなかった。
全人類の罪を許す者がひとり存在したからといって、それで人類の罪が消えるわけではない。
むしろ、それは、人間のすべてが汚れていることの証左を示すことに他ならないではないか。
だからこそ、冥界の王は、汚れた人の世を滅ぼそうとしているのではなかったのか――。
ハーデスの言葉は、パンドラのその認識を ひどく混乱させるものだった。

「人は罪を犯す。人は、他者の命を奪って自らの命を永らえる。その他者が植物であろうと動物であろうと人間であろうと、それは、生きている人間が生き続けるために犯さざるを得ない罪だ。その罪を認め、素直に神の前に立てる人間こそが清らかなのだ」
人は生まれた時から罪を負っているとする馬鹿げた宗教。
もしかしたら、それは自らを汚したいという願望の表われなどではなく、単なる事実を教義にしただけのものなのかもしれない。
確かに、人間は他者の命を奪う罪を犯さずには生きていけない存在として 生まれついている。

「それは、ただの開き直りなのではありませぬか」
「違う。開き直りとは、自らの罪を罪でないと言い張ることだ。瞬は違う。瞬は己れの犯した罪を悔いている」
ハーデスはあくまでも瞬を庇うような発言を繰り返した。
瞬を責めるための問いを重ねながら、パンドラは、心のどこかでハーデスの言葉を喜んでいたのである。
瞬は、彼女にとっても大切な“人間”であったから。
そして、彼女自身もまた、瞬と同じ人間の内の一人であったから。






【next】