「恋か」 今の瞬を作ったのは、自らが光でありたいと望む恋の心――であるらしい。 恋をすることで汚れる人間もいるだろうにと思いながら、ハーデスはなるほどと独りごちた。 恋する相手の光でありたいと望む心が、自らの外の世界にまで光を求める人間を作ったというのなら、その力の強さにも納得がいく。 瞬の形を写し取った影は、細く満足げに微笑した。 「は? 何とおっしゃいました?」 「どうして人間は侮れない力を持ったもののようだ。心してかかろう」 「――ハーデス様は……本当にお楽しそうです」 既に神の考えを理解しようという努力を放棄したパンドラが、冥界の王の表層に見えるものだけへの感懐を口にする。 今はまだ影にすぎない神は、黒衣の女に頷いた。 「楽しい。まるで余が恋をしているようだ。どちらに恋をしているのか わからぬほど、余はあの二人に恋をしている」 神が、これからその存在を抹殺しようとしているものに 恋をしていると言い切ることがあってよいものだろうか。 パンドラは、人智での理解を超えているとしか思えないハーデスの言葉に、僅かに首を横に振ることしかできなかった。 「というより、余は人間というものに恋をしているのかもしれぬな。人間は諦観に満ちた神とは違う。何より生きている。だから試練を与えたいのかもしれない。余は、人間の在る世界というものを楽しみたいから、その存続を許す理由を得たいがために、人を試さずにはいられないのかもしれぬ」 「それは――」 パンドラは、ハーデスのその呟きに不安を覚えた。 一瞬ためらってから、思い切ったように言葉を続ける。 「それはアテナと同じ病なのでは……」 ハーデスは、冷たい微笑で、彼女に答えた。 「アテナは人間に恋などしておらぬ。アテナ本人が言っていただろう。アテナは人間が持っている“愛”というものを信じて、自らも人を信じ愛そうとしている。アテナと余では、そこが決定的に違う。恋は、その瞬間絶対だが、信頼や愛というものは継続であり、永続的であることを目的に生まれ行なわれるものだ。そして、本来は冷静に実践されるべきものでもある。人間がアテナの望む美点を持たなくなれば、アテナの愛は変質していく。アテナは人間を愛することをやめる決意さえするかもしれない。だが、恋は違う。恋は自らの意思では止められない」 その、自分では止めることのできない思いが、ハーデスの心を急かす。 200年以上の沈黙を耐えられた神の心が、今 この瞬間、己れの逸る感情を抑えることができずにいた。 「早く――早く余の許に来い、瞬。すぐに余のものにしてやる。あの魂を、余だけのものにする――」 そうなった時、ハーデスが恋するもう一人の男はどうするのか それでも、その瞳を見詰めようとするのか、抱きしめようとするのか、あるいは光と呼び、神と呼ぶのか――。 いっそ、もう一人の恋人もこの場に呼びつけてしまいたいと、ハーデスは思ったのだが、そこまでの喜びに浸ることは今のハーデスには許されていないようだった。 金色の髪をした瞬の恋人は、このジュデッカから遠く離れた場所で闘っている。 氷河は、冥界の王が彼の恋人と出会う場面に間に合わないかもしれない――間に合わないだろう。 もしかしたら、彼にとっては幸運なことに。 それは非常に惜しいことだが、ともかく、恋をするのは楽しい。 瞬の姿をした影の口許に自然に生まれてくる微笑みに気付くと、ハーデスはその事実にまた微笑を重ねた。 そして再び、これが最後の沈黙になるであろう沈黙の中に帰る。 パンドラが振り向くと、ちょうど 琴座の白銀聖闘士がジュデッカに花の香りを運んできたところだった。 Fin.
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