瞬が客間のドアを閉じたことを確認すると、氷河は険しい顔をしてカロンに向き直った。
瞬がいないのなら もはや遠慮はいらないとばかりに、直截的な言葉で、元冥闘士・現求職者を怒鳴りつける。
「貴様、瞬の倍も歳を食ってるオヤジのくせに、まさか瞬に岡惚れてるんじゃないだろうな!」
「岡惚れ?」

どうやらカロンは、自分自身と自分の心が向いている相手をしか見ないタイプの男らしく、瞬と氷河の関係には全く気付いていないらしかった。
自分が他人の恋人に横恋慕している自覚のない現求職者は、あろうことか当の恋敵に向かって、己れの心情を吐露し始めたのである。

「あのガキの目には魔力がある……」
「なに?」
「アンドロメダの、あの澄みきった目に見詰められると、俺はもう……」
氷河の美的基準では人類外の顔を、カロンは、氷河の前で、まるで雑煮の中で煮溶けた餅のようにゆるませてみせた。
「俺は仕事になぞ就きたくない。できることなら永遠にアンドロメダの目の中に住んでいたい」
どうしてカロンは 一輝顔負けの詩人である。
自らの就職活動中断の理由を実に詩的に表現してみせるカロンに、氷河は目一杯ムカつくことになった。

「瞬の目は確かに綺麗だが、あれには魔力なんてものはないぞ」
この男の目を醒まさせ、現実の世界というものを見せてやらなければならない――。
そう考えた氷河は、彼の幻想を打ち砕くべく、意識して冷淡な口調で、その事実を詩人に告げた。
即座にカロンから反論が返ってくる。
「そんなはずはない! この俺様が、アンドロメダの目に見詰められると身体が震えて、言うことをきかずにいられなくなるんだ。どうしてもあのガキに逆らえない。あのガキはハーデス様がその依り代として選んだほどの人間だそうじゃないか。何か特別な力を持っているに決まってるぜ!」

彼は、ものの見事に“恋”の罠にはまっている。
身に覚えがあるだけに、氷河は実に複雑な気持ちになった。
「――言いたくはないが」
言いたくはないが、言わなければ、この男は、自分がなぜそう・・であるのかの正しい理由もわからずに、瞬を追いかけまわし続けるに違いない。
氷河は嫌々ながら、カロンが今 陥っている状況が 世間一般では何と呼ばれているものなのかを、彼に教えてやったのだった。

「それはただの恋というやつだ。他人には特別でない人間が、自分にだけ特別に見える理由は他にはない」
「なに?」
カロンにとって、それは、ありえない単語だった。
実際、そんな単語がこの世に存在することを彼はすっかり忘れていたし、それで何の不都合もない人生を、彼はこれまで歩み続けてきたのだ。

「貴様、俺の目を見てどう思う」
突然 自分には あまりに縁遠い言葉を持ち出され、半ば呆けているカロンに、氷河がこれまた唐突に尋ねる。
氷河の言葉に困惑しつつも、質問されたことに答えるべく、カロンは氷河の目に視線を投じた。
まじまじと観察するまでもなく、それがどういうものであるかが、カロンにはすぐにわかった。

「腐りきっているな。傲慢で、他人を見下している目、驕っている者の目だ」
「見る目は確かだな。だが、その俺の目を見て、瞬は 貴様が瞬に対して思うのと似たりよったりのことを言う」
「なに?」
それはいったいどういうことかと、カロンが反問しかけたところに、ちょうどドアの向こうから瞬の声が響いてきた。
「氷河、お茶持ってきたよ。ドア開けてくれるー?」

氷河が掛けていたソファから立ち上がり、客間のドアを開ける。
ポットとティーカップの載ったトレイを持った瞬が そこにはいて、氷河の手によってドアが開けられると、瞬はまだ少しばかり不安の残る眼差しを室内にいる二人に向けてきた。
氷河が、瞬の手からティーカップの載ったトレイを受け取り、テーブルの上に置く。
それから彼は、カップを銘々に配ることもせず、瞬の名を呼んだ。

「瞬」
「なに?」
「俺の目を見ろ」
瞬が氷河の言葉に従ったのは、彼に命じられたことを実践するためではなく、むしろ、氷河が突然そんなことを言い出した訳を窺うためだったかもしれない。
だが、瞬の目は、そのまま氷河の青い瞳に釘付けになった。

「何が見える?」
「僕が映ってる」
氷河が尋ね、瞬が答える。
まるで催眠術をかけられてでもいるかのように、瞬の答えは滑らかで澱みがなかった。
「俺の目の中のおまえはどんなふうだ?」
「氷河の目の中にいるんだもの。すごく幸せそう」
実際幸せそうに、瞬はそう言った――ように、カロンには見えた。
「氷河に見詰められてると、僕、自分が綺麗に澄んでいくような気がするんだ……」
ほとんどうっとりしたような表情で、カロンから見れば驕慢そのものの男の目を見てそう言う瞬に、元地獄の渡し守はあっけにとられてしまったのである。

うっとりする対象が違うだけで、瞬の陶酔はカロンのそれと全く同じ現象だった。
瞬の瞳を見詰めると、これまでに自分の犯した罪を思い起こし、罪悪感を覚える。
だが、それと同時に、罪を自覚している自分がとんでもない善人に感じられ、かつ、そんな自分が瞬の瞳の中で清められていくような気がしてくるのだ。
しかし、こんなことがあっていいものだろうか。
氷河の瞳の持つ色と輝きは、カロンには驕慢そのものに見えた。
それは、カロンには、到底清澄と言えるようなものではなかったのだ。

瞬の返答は、氷河の期待通り・予想通りのものだったらしい。
瞬の言葉に、氷河は満足げに頷いた。
「じゃあ、俺に見詰められすぎたおまえが澄んで透明になってしまう前に、紅茶に入れるジャムを持ってきてくれ。このオヤジは意外や甘党だそうだ」
「そうなんだ?」
お茶の好みの話をしているくらいなら、事態は険悪な方に流れてはいないのだろう。
そう察して 気を安んじた瞬は、彼の甘党の同志のためのジャムを取るために、そそくさと、そして嬉しそうに、再度客間を出ていった。






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