有力な神の守護を受けている国――とはいえ、その神の正体を知る者は誰もいなかった。
神に祈りを奉げる国王でさえ その名を知らず、神殿でその神に祈りを捧げる時の呼び名は『我等が神』という漠然としたものだった。
“彼等の神”は、大神ゼウスとも、知恵と戦いの女神アテナとも、オリュンポス神族より更に古いティターン神族の一柱とも言われていたが、数百年間その正体は明らかにならぬまま、王の祈りだけが神に聞き届けられ続けてきたのである。

今では、その神が何者なのかを詮索する者は、国の中に一人もいなくなっていた。
願いが叶えられるのなら、神の名が何であろうと、それは大した問題ではない。
ともあれ、名も知れぬ彼等の神は、必ず王の願いを――それがどんな願いであれ――叶えてくれるのだ。
王家の血を引く者が供物として奉げられることと引き換えに。

ある年、その国は大変な旱魃かんばつに見舞われた。
そこは もともと雨の少ない地域であったのだが、国内には水量の豊かな河が流れ、泉が数多くあった。
だが、日照り続きで雨が降らない日が100日も続いたその年、河は枯れ、泉も新しい水を生まなくなってしまったのである。

麦も野菜も果樹も育たず、動物たちも飢えと渇きのために ばたばたと倒れていった。
やがて同じ運命が人間の上に降りかかってくるのは、間違いのない状況だった。
当然のごとく、国の民は、王が神にこの窮地を救うべく祈りを奉げることを期待した。
民の窮状に心を痛めていた王も、その期待に応えたかった――応えるために、王家はある。
しかし、それは、時の王にはできない相談だったのである。
その時、かの国の王家には、神に願いを叶えてもらう代償として奉げることのできる者がいなかったのだ。
神に奉げられるのは王家の血を引く未婚の処女のみと定められていた。
だというのに、その時、王家には王と王妃の他には、生まれたばかりの王子が一人いるだけだったのである。

神官を兼ねていた国王は民の惨状を見兼ね、ある日、“彼等の神”に伺いを立てた。
奉げるものがなければ、国の窮地を救ってもらうことはできないのか――と。
王の問いを受けて、彼等の神は答えた。
「今は供物は奉げなくてもよい。代わりに、今は赤子の王子が 16歳になった春分の日に、その身を神殿の祭壇に奉げよ」
と。

この国のただ一人の王子を神に供すれば、王家を継ぐ者がいなくなってしまう。
だが、神の寛大な要求を拒めば、国そのものが滅んでしまう。
王は、神の提示した条件を受け入れるしかなかった。

神は王の願いを聞き届けた。
翌日から7日7晩、国中の大地を温かい雨が潤し、枯れていた河や泉は再生した。
畑の農作物は緑を取り戻し、果樹はたわわに実り、死に瀕していた動物たちも人間も その命を永らえることができたのである。
王と神を称える国の民の歓喜の声の中で、だが、犠牲が皆無だったわけではない。

この国の王家に生まれた者に否応なく課せられる宿命とはいえ、王子ならば その宿命に殉じることはないと考えていた王妃の心に、王と神との誓約は大きな打撃を与えた。
悲嘆のあまり王妃の命は まもなく儚くなり、その数年後、王もまた残された王子を心配しながら不帰の人となったのである。

ひとり残された王子の名はシュンといった。
本来ならば、父王亡きあと国の王となるべきところだったのだが、彼は 親政を行える年頃には神に奉げられる身である。
国の官吏・長老たちの総意で、彼は国の王に即位することなく王子の身分で16年の人生を過ごすことになったのだった。

――王のいない王室。
しかも、王子が16になった春には、王家の血を引く者がこの地上から消えうせる。
その後は、独立を保つか、いずれかの国に併合を願い出るか、あるいは他国の王家から新しい国王を迎えるか――国の民の意見はそれぞれであったが、ともあれ、その決定を為すことが、神に奉げられる王子の最初で最後の仕事ということになったのだった。

両親は亡くとも、“国”によって、シュンは大切に育てられた――厳重な監視のもとに。
王子が16歳の春を迎える前に命を落とすようなことがあれば、それは国の一大事であり、また神に奉げられることを忌避した王子の逃亡の可能性もないとは限らない。
身寄りもなければ、ひとりで生きていく術も持たない王子に――彼はそのように育てられた――逃げ込む場所などあろうはずもなかったのだが。

シュンの父と神との間に誓約が結ばれてから、16年の月日は瞬く間に過ぎていった。






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