「そんな恥ずかしいセリフを、どのツラ下げて言ったんだ、氷河の奴は!」
氷河の言動に関して色々と意見したいらしい紫龍の相手は星矢に頼んで、瞬は氷河の部屋に向かった。
彼はいまだに昨日の不機嫌を引きずっているらしく、ベランダに置かれた二人掛けの藤椅子の中央に、いかにも ふてくさっているような姿勢で腰掛け、そこから城戸邸の庭とその上にある空とを睨みつけている。
瞬は小さな苦笑を洩らしてから、彼の肩に右の手を置いた。

「今日は月は見えないね」
時候の挨拶としても、それは奇妙なものだったろう。
それは普通、春の午前の青空の下で発せられて自然な言葉ではない。
ともあれ、瞬は、その奇妙な挨拶で氷河の気を引くことに成功した。
春の庭と空から逸らされ 自分の上に移動してきた氷河の視線を捉え、言う。
「氷河は、僕のこと買いかぶりすぎなの」

氷河は、瞬の一連の発言に脈絡を見い出すことができなかったらしく、僅かに眉根を寄せた。
氷河の反応に委細構わず、瞬が言葉を続ける。
「昨日、僕のあとをつけてたんだって?」
無言でいることで、氷河はそれを肯定した。
その様子を見て、氷河の今日の不機嫌が昨日の不機嫌の延長戦上にあることを確認した瞬が、椅子に掛けている氷河の正面にまわる。

「お礼の言葉をもらえないからって、そんな理由で 足元の覚束ない人たちに席を譲らずにいることの方が、僕は居心地が悪いんだよ。僕は自分のために、席を譲っただけ」
「何の報いも得られない善行など、普通、人は繰り返さない」
「そんなことないと思うよ」
「そういうもんだ。おまえの常識で考えるな」
「じゃあ、“普通の人”は、この人はお礼を言ってくれそうだって見極めてから、人に席を譲るの。ありがとうって言ってくれそうにない人には席を譲らないの? そんなことないでしょう?」

「む……」
瞬のその言葉には、氷河も頷かざるを得なかった。
自分がもし、昨日瞬がいた場所にいたとしたら、相手が礼儀を知っていようが礼儀知らずであろうが、そんなことには頓着せず、瞬と全く同じことをしていただろう――と思う。
足元の覚束ない人間に 目の前でふらふらされるのは目障りだから――という理由で。
だが、氷河を苛立たせていたのは、本当はそういうことではなかったのだ。
瞬が電車で老人たちに席を譲ったことは、氷河を憤らせるための ただのきっかけにすぎなかった。

「俺が言いたいのは、おまえが貧乏くじを引くことはないだろうということだ! そういう礼儀知らずに席を譲るのは、もっと馬鹿で阿呆な身体だけは丈夫な苦労知らずのガキがやればいい!」
それでなくても瞬は、他の部分でずっと、“馬鹿で阿呆な身体だけは丈夫な苦労知らずのガキ”に比べて不運な境遇にあるのだ。
足元の覚束ない老人たちより 恵まれてもいない。
家庭的な不遇は言わずもがな、したくもない闘いを闘わせられ、“馬鹿で阿呆な身体だけは丈夫な苦労知らずのガキ”なら傷付かずに済むことで傷付いてもいる。
せめて電車の中でくらい、他人より恵まれて・・・・いてもいいではないか。

「貧乏くじって、差別用語じゃない?」
笑って氷河の暴言をたしなめた瞬は、
「話をそらすな!」
逆に氷河に頭から怒鳴りつけられた。
氷河の怒声に両の肩をすくめてみせてから、瞬は、氷河に向けていた視線を少し切なげなものに変えたのである。

「でも、それで、僕が自分の損得しか考えないような人間になったら、氷河は僕を好きでいてくれなくなるでしょう?」
「……」
「僕、ずるいんだよ。貧乏くじを引く人間、善良な人間、お人よし――そういう人間は他人に憎まれないってことを知ってるんだ。――きっと、氷河流に言えば、“苦労を知っている子供”の知恵で」
「おまえがそんなことを考えて、あの礼儀知らずたちに席を譲っていたとは思えない」
氷河は、瞬の言葉を即座に否定した。
瞬が席を譲った者たちは、誰もが行きずりの人間である。
彼等に『親切な良い人だ』と思われても、瞬に実質的な益は何もないではないか。

なかなか論破されてくれない氷河に、瞬が困ったように唇を引き結ぶ。
「僕は、じゃあ、そういうふうに振舞うのが癖になっちゃってるだけかもしれない」
「癖?」
癖とは――他人のために報いを求めずに親切を施すことが癖とは――。
それは もしかしたら――もしかしなくても――人として“良い”癖なのかもしれない。
だが、それが、“苦労を知っている子供”が人に憎まれないために身につけた癖だというのであれば――しかも、そんな癖を身につけてしまった“子供”が よりにもよって瞬だというのであれば――氷河には、その事実はひどく悲しいことだった。

氷河がその瞳に やるせない色を浮かべるのに気付いて、瞬が、すぐに首を横に振る。
瞬の癖は、そんなことのために身についたものではなかったのだ。
「でも、僕にその癖をつけたのは氷河だからね」
わざと氷河を責めるような口調で、瞬は彼に告げた。
彼の肩の上にある金色の髪に、指先を絡ませながら。

「氷河が、僕を人に席を譲らないような人間にしたいのなら、貧乏くじを引く僕を見て苛立ちたくないのなら、氷河も僕に優しくするのをやめて――愛するのをやめて。そしたら僕はいくらでも利己主義な人間になれる」
「瞬……」
突然 思いがけないことを言われて、氷河は返す言葉に窮し、息を呑んだ。






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