「あ……あの、どちらに行こうとなさってたんですか」 「大学の図書館に」 その時になって瞬はやっと、彼がほぼネイティブに近い日本語を話していることに気付いた。 彼の外見ばかりを この大学の付属病院は、特に眼科に有能な医師の多いことで全国に名を馳せていた。 講究よりももっと実際的なオペレーション技術の卓越で。 特に高名な医師は、週に2日は各地の病院に困難な手術を行なうために出掛けていき、診察の予約をとることも難しいらしい。 そのせいもあって、大学の図書館では、盲人のための点字ライブラリーやオーディオライブラリーが充実している――と、これは医学部志望の紫龍から聞いた話である。 おそらく彼は、それらのものに用があるのだろう。 「あ、じゃあ、こちらです」 そう言って、瞬が彼の手を取る。 綺麗な外見の持ち主は、その綺麗な顔を奇妙に歪ませた。 途端に瞬は、自分が彼と今日たった今出会ったばかりの赤の他人であるという事実を 思い出したのである。 彼の不審も当然のことだった。 「あ、僕、怪しい者じゃないです。この大学病院の付属高校の生徒で、忘れ物を取りに――」 瞬は、彼を安心させようとして、手にしていたランチボックスの包みを示したのだが、そうしてから、視覚が失われている人間に そんなことをしても意味はないのだということに気付き、気まずい思いになった。 彼は空気でそれを察したらしく、その顔に微笑を浮かべる。 「いや、君を疑ったわけじゃない。自分のドジのせいで、親切なお嬢さんと知り合えた幸運を喜んだだけだ」 「え……」 『お嬢さん』とはまた、時代がかった言い回しである。 それはともかく――目の見えていない人間に『お嬢さん』呼ばわりされることで、瞬はいっそ すがすがしいほどに諦めがついてしまったのである。 自身を『僕』と呼び、もちろん自分が少女であるという主張もしていないというのに、『お嬢さん』なのだ。 声、言葉使い、彼に触れた手、身にまとった雰囲気――彼に自分を『お嬢さん』と判断させたものが何なのか、それは瞬にもわからなかったが、いずれにしてもその原因は瞬の側にあり、彼は少なくとも外見で瞬を少女と判断したわけではない。 瞬が彼に『お嬢さん』呼ばわりされても腹が立たなかったのは、瞬が彼の障害に同情したからではなかった。 そうではなく――彼が瞬を、聞き慣れた『“可愛らしい”お嬢さん』とは言わず、『親切なお嬢さん』と言ったから、彼が自分の外見ではない部分を この誤解――自分が『お嬢さん』でないこと――を、どう言って解くべきか。 うまい方策が思いつかず口をつぐんでしまった瞬に、彼が僅かに眉根を寄せてみせる。 「数ヶ月前にロシアから来たばかりで、日本語を使うのは10年以上ぶりなんだ。俺は何か変なことを言ってしまっただろうか」 「10年――」 言い回しが時代が勝っているのも当然のことである。 ここ10数年で日本語が――特に若年層のそれが――変貌しているらしいことは、その渦中にいる瞬には実感できずにいたが、時折 社会問題の一つとして各メディアで採りあげられていた。 身近なところでは、瞬の兄が、男子の軟弱な言葉使いと女子の乱暴な言葉使いを、ことあるごとに嘆いていた。 そんな兄の言葉使いを、瞬は、時代劇調だとこっそり思っていたが。 「ロシアの方なんですか?」 道理で北の人間特有の陽に透けるような金髪をしているわけだと納得した瞬は、自分がまた人の外見を気にしていることに気付いて、小さく吐息した。 これでは、彼の『お嬢さん』にクレームをつける権利もない。 そう考えて、瞬は彼の誤解を解くことを、早々に諦めたのである。 「半分だけ。日本人としての名もある。氷河というんだ」 「あ、僕は瞬といいます。氷河さんは――」 「氷河だ」 彼に名を呼び捨てることを求められた瞬は、礼節を重んじる一日本人として、一応 戸惑いを覚えた。 が、生粋の日本人でない彼は、人と人の交わりに関して 礼節よりも親しみを感じられることの方に価値を置いているのだろうと思い直し、自身の戸惑いを切り捨てる。 「じゃあ、氷河。図書館はこっちです」 瞬はほとんど開き直り、“少女のような”手で、もう一度彼の手を取ったのである。 大学生や院生、病院の職員や医師の利便を考えて午後10時まで開いている図書館は、日中とさして変わらないほどの利用者がいた。 瞬は、図書館のカウンターまで彼の手を取って案内していったのだが、氷河の足取りは その必要も感じられないほどしっかりしたものだった。 彼の目が見えていないとは、とても信じられない。 彼は相当勘のいい人間なのだろう――と思う。 閉架図書利用の閲覧許可証を兼ねたIDカードをカードリーダーに通す際に、彼の手が見当違いの方向に伸ばされるのを見なければ、瞬は彼の不幸を思い出すことのないまま、美しい異邦人に別れを告げることができていたかもしれなかった。 |