氷河と一緒に図書館の玄関を出るまで、瞬の心と足は地に着いてはいなかった。 落ち着いてものを考えることができないほど、状況は迅速に進んでいき、瞬の理解はそのスピードに追いつけずにいるというのに、二人でいられるこの状況を嬉しいと感じている自分がわかる。 昨日知り合ったばかりの他人とお茶を飲む――どちらかといえば不自然な、そして何ということもないことに、なぜこんなに自分の心が浮き立っているのか、その訳を考える余裕も、今の瞬にはなかった。 そんな瞬の心を冷静にしてくれたのは、図書館を出たところに立っていた二人の高校生だった。 先日とその1週間前、瞬に交際を求めてきた二人の上級生が、どういうわけか並んでそこに立っていたのである。 一人で図書館に入っていった瞬が二人になって出てきたことは、彼等にとっては想定外のことだったらしい。 行動を起こすべきか否かを、しばし彼等は迷っていたらしいのだが、二人は結局行動に出た。 「外見にこだわる奴は嫌いだとか言っていなかったか」 瞬の隣りに立つ氷河を見て、彼等は開口一番にそう言った。 言外で氷河の美貌を認めている彼等の審美眼を、しかし、今は瞬は褒めてやる気にはなれなかった。 せっかくの楽しい気分に水をさされて、瞬はあからさまに眉をひそめたのである。 「僕に何かご用ですか」 彼等が自分につきまとう訳を、瞬は今日の昼休み、紫龍経由で星矢に教えてもらったばかりだった。 本気で交際を求められるのと大差なく、それは不愉快な理由だった。 「あのあと、友人から教えてもらったんです。3年生たちの間で、僕に男性とそういう経験があるかないかの賭けがされてるって。そんな特殊な趣味の人たちがごろごろしているはずがないと思っていたけど、あなた方は僕を賭けの対象にしていたんですね」 賭けの面子は十二分に出揃ったが、丁か半かの見極めをつけることができなくて胴元が困り果てているらしいから気をつけろというのが、星矢からの忠告だった。 要するに瞬は、瞬の知らないところで、祭りの山車として担ぎ出されていたのである。 「特殊な趣味の持ち主に、本当に犯られるよりマシだろう。俺たちはそこまで乱暴なことは考えていない。そっちの兄さんの『やった』という証言だけでももらえれば十分だ」 そう言いながら、彼等が腕力に訴える気満々でいることは、先日までの行動でわかりきっている。 賭けの中心になっているのは、小学校からの持ち上がり組の中で学業から落ちこぼれた不品行な生徒たち。奴等は平気で無体なこともしかねないから気をつけろ――とも星矢は言っていた。 彼等が彼等の学園生活をどう楽しもうと、そんなことには瞬も文句を言うつもりはなかったが、彼等が氷河の前で下劣な話をすることは、瞬を非常に立腹させた。 「氷河を侮辱するのはやめてください! 残念ですけど、あいにく僕はあなた方の悪ふざけに付き合っている暇はないんです」 こんな下劣な輩の相手はしていられない。 瞬は、いつもの通りに その場から逃げ出そうとして、彼等の隙を窺いながら爪先に力を入れた。 が、すぐにその力を抜く。 今、瞬は一人ではなかったのだ。 目の見えない氷河を一人残し、自分だけが危地を逃れるわけにはいかない。 彼を守ることのできる人間は、この場に自分ひとりしかいないのだ。 瞬は、覚悟を決めて上級生たちに向き直った。 瞬がいつもこの手合いの前から逃亡するのは、相手に怪我をさせたくないからである。 護身用のマトモな武術は兄に、ルール無視の喧嘩の作法は星矢に、瞬はしっかり仕込まれていた。 氷河さえ彼等に奪われなければ、何とかなるはずだった――何とかしなければならない。 「氷河、ごめんなさい。巻き込みたくないから、しばらく後ろに――」 『下がっていてくれ』と瞬は言おうとしたのだが、次の瞬間に氷河がしたことは、瞬の希望とは全く逆のことだった。 瞬の横に無言で立っていた氷河は、あの邪魔ではないのかと疑うほど長い脚で、瞬なら6歩はかかる距離を3歩で前進し、瞬の同級生たちに身構える隙も与えず、彼等の腹にその拳をめり込ませていたのである 右手しか使っていないことは、瞬にもわかった。 ありえない速さである。 瞬は、むしろ、二人の上級生が倒れるスピードの遅さに、時間がねじれているような不自然を感じることになった。 「行こう。瞬」 氷河が、呆然としている瞬の手を取る。 異変に気付いた図書館の職員がその場に駆けつけてくる前に、氷河に手を引かれた瞬は病院の中庭にまで連れてこられていた。 「氷河、あの、ご……ごめんなさい……」 目に不自由を抱えた人間を危ないことに巻き込むことになったのは、ともかく瞬の責任である。 盲人とは思えない氷河の行動には驚かされたが、瞬の申し訳なさ・罪悪感は それで消え去るものではなかったし、また、帳消しになるものではなかった。 「俺を置いて逃げられないと考えてくれたろう。生徒同士のいざこざは問題になるだろうに。悪かった。ありがとう」 「氷河……」 見えていないのに――もしかしたら、見えていないからこそ――氷河はすべてをわかってくれている。 責められても当然のことと、それを覚悟していたのに、逆に礼を言われ、瞬は安堵のあまり泣きそうになってしまったのである。 こんなふうだから、“女の子のよう”だと言われるのかもしれなかったが、そんなことは今はどうでもよかった。 瞬は、氷河に迷惑をかけずに済み、氷河に嫌われずに済んだのだ。 「僕の方こそ……ありがとうございます」 氷河には見えていないことを承知で、瞬は彼に頭を下げた。 氷河が、そんな瞬の髪に右の手をのばしてくる。 その手は瞬の頬に触れ、瞼に触れ、唇に触れ――最後に彼は両手で瞬の頬を包み込んだ。 「とても可愛らしい。瞬のことだから、瞳も澄んでいるだろう。血迷う者が出てきても仕方がないな」 責める様子もなく微笑する氷河の瞳に――瞬の姿を映していない彼の瞳の中で、瞬は気が遠くなりかけていた。 |