「氷河の目、見えるようになるの……」
瞬は、その事実を素直に喜ぶことができなかった。
その幸運が――それが幸運と呼べるものだとして――ひとりの人間の死によってもたらされるものだからというのではなく、瞬は、自分自身のために、氷河の目が光を取り戻すことを喜んでしまえなかったのである。

学校帰りの瞬は、彼が通っている高校の制服を着ていた。
男子用のグレイのブレザーの身頃は左上前になっている。
目が見えるようになれば、氷河はやがて、この学園都市の中で、同じ生地で作られた女子の制服を身に着けた高校生を見ることにもなるだろう。
そうなれば、氷河はすべてを知ることになる――瞬の嘘を知ることになるのだ。

「本当は、父の遺産を整理後、母の眠る国に帰るつもりでいたんだが、考えが変わった。俺はこの国に永住する」
なぜ考えを変えたのかと、なぜその決意をこんな大変な時に知り合ったばかりの高校生に語るのかと尋ねることが、瞬は恐くてできなかった。
瞬が少女であったなら嬉しいはずの答えが返ってきた時、少年である自分はどうすればいいのか――。
瞬は、今更ながらに、自分の嘘の重さに戦慄していた。

「手術が終わったら、身の振り方を決めるつもりだ。父は一生遊び暮らしていても困らないだけのものを残してくれたが、だからといって遊び暮らしているような者は、この国では一人の人間として認められないようだしな。何か仕事を始めるか、学籍を手に入れるか、ともかく俺はこの国で何らかの社会的な身分を手に入れる」
いったい誰のために――?
もし、それが“瞬”という名の少女のためだったとしたら、瞬はもう氷河に会うことはできなかった。
氷河の目が見えるようになったら、瞬はもう氷河には会えない――のだ。

「氷河、あの……」
時が時である。不謹慎なことはわかっていた。
場所は図書館の門前、数は少ないが図書館に出入りする人の人目もある。
だが、今なら、氷河の目には何も見えていない。
彼に見えているのは――彼が認識しているのは、“瞬”という名の少女の気配だけなのだ。
だから、瞬は、言うことができたのである。
「僕にキスしてくれる」
今しか言うことのできない、その言葉を。

瞬のその言葉に、氷河は一瞬 目をみはった――見えていない その瞳を見開いた。
こんな時に、こんな場所で、それは つつましい(という風評が根強く残る)日本女性が口にするような言葉ではない――と、彼は思ったのかもしれない。
だが、すぐに、瞬のその言葉はこんな時だからこそ発せられた言葉なのだと、彼は思い直したようだった。
不安が、瞬にそんな言葉を言わせたのだと。

「それは、瞬が俺を好きでいてくれるから出てくる言葉とうぬぼれていいのかな」
おそらくは、瞬の心を安んじさせるために――氷河は軽い口調で尋ねてきた。
対照的に、瞬の声音は暗く重いものになる。
「氷河は、今は目が見えないからわからないだろうけど、僕は本当はとても醜い人間なんだ。だから……氷河の目が見えるようになったら、僕はもう氷河に会えなくなるから」
瞬が氷河に求めたものは、“お別れのキス”だった。
「瞬が醜いはずはない」
氷河が“約束のキス”を瞬の唇に運んでくる。
瞬は、目を閉じて氷河の唇を受けとめた。

「父の葬儀や手術のために、これから しばらく ここに来ることはできなくなるだろうが、半月もすれば元の生活に戻れると思う」
二人が会えなくなることなど、氷河は考えてもいないようだった。
瞬を力付けるように、念を押すように、彼は瞬の両肩をその手で包み、熱を帯びた声で瞬に囁いた。
「瞬に会えなくなってしまったら、たとえ光を取り戻すことができても、俺は絶望するぞ。俺を恋で殺したくなかったら、俺がどうなっても、これまで通り会いにきてくれ」
「氷河……」

真剣な口調で語る氷河に、瞬は、小さく頷いた。
瞬は頷くしかなかったのである。
二人が綺麗に別れるために。
瞬の瞳から、耐え切ることのできない涙が零れ落ちる。
その涙が氷河に見えなくて本当によかったと、瞬は 自身のささやかな幸運を喜んだ。






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