氷河の左の目の包帯が取れたのは、それから更に1週間後のことだった。
右目の手術の予定はわからないが、ともかく彼は左目の視力は取り戻した――のだろう。
それでなくても勘のいい氷河が視力までを得たのである。
この恋を綺麗なままで終わらせるためにも、もうここには来ない方がいい。
瞬は自身に決意を促し、そして、決意した。
その姿を網膜に写し取るように強い視線で氷河を見詰め、それから未練を振り切るようにして、氷河に背を向ける。

その瞬間だった。
瞬が姿を隠すように寄り添っていた楡の木から50メートルも離れた場所にあるベンチに腰をおろしていた氷河が突然立ち上がり、瞬のいる場所に向かって歩み始めたのは。
「瞬」
足がすくんで その場から動けずにいる瞬の前に立ち、そして彼は僅かな迷いも見せずに瞬の名を呼んだ。

「ど……どうして……」
見知らぬ他人の振りをしなければならなかったのに――瞬は、混乱のあまり そう言ってしまっていた。
気配を殺すことを一瞬忘れたのは事実だが、二人の間には数十メートルの距離と、中庭の芝生を行き来する複数の人間という障害があったのである。
驚愕する瞬の前で、氷河はにこやかに笑い、瞬が聞き慣れたあの言葉を口にした。

「優しい気配がしたから」
そして氷河は、だが、すぐに少々気まずそうな顔になった。
「というのは嘘じゃないが――瞬、怒らないで聞いてくれ」
彼にしては ためらいを含んだ仕草で、氷河がその手を瞬の頬に持ってくる。
(あ……)
氷河の手にもう一度触れてもらえることがあろうとは! 瞬は、氷河の手の感触のせいで、一瞬 気が遠くなりかけたのである。
そんな瞬の意識をかろうじて その場につなぎとめたものは、氷河が口にした思いがけない告白だった。

「俺は最初から見えていたんだ。俺が見えてないのは、左目だけだったから」
「……」
瞬は、思わず息を呑んだ。
当然だろう。
確かに氷河はいつも盲人とは思えない振舞いを見せてくれてはいたが、しかし、やはり盲人としか思えないような彼の所作も、瞬はこれまで幾度も目にしてきたのである。
それは到底演技とは思えないほど自然な“不自由”だった。
何より、瞬の前で盲人の振りをして、氷河にどんな得があるというのだろう。

「瞬にはわからないかもしれないが、利き目が見えていないと、人はまともに遠近感を掴めなくなるんだ。最初に会った時に俺が階段を踏み外したのも、そのせいで――」
「で……でも、両方見えないって」
「そう言った覚えはない。ただ……初めて会った日、瞬は、俺を全盲と思い込んで、俺を図書館に連れていってくれようとしただろう? 実は見えているとわかったら、瞬はそうしてくれたか?」
「それは――」
「俺は、瞬を誤解させておけば、少しでも長く瞬と一緒にいられると思ったんだ。その上、盲人ならいくらでも瞬の顔を見詰めていられるから――そうしても無礼なことにならないだろう? 日本人は、人と視線を合わせるのを嫌う民族のようだったし、盲人ということになっている俺の前でさえ、瞬はいつも伏し目がちだった」
今も、瞬は氷河の前で目を伏せていた。
罪人は、人と目を合わせることを恐れるものなのだ。

「で、瞬のどこが醜いというんだ?」
目の見えている氷河が、その手を瞬の頬に添えたままで、瞬に尋ねてくる。
自分の醜さが、彼の目には――見えているはずの彼の目に――見えていないらしい。
もはやそのことを幸運と思うことができず、瞬は力なく首を横に振った。
「僕……女の子じゃないんだ」
「その制服を着た瞬に、俺はこれまで何度も会っているが」
「あ……」

言われてみれば、その通りである。
氷河は気付いていたはずだった。
もしかしたら、二人が最初に出会ったその日のうちに、彼はその事実に気付いてしまっていたのかもしれない。
だが、だとしたら、なぜ彼は――。
「し……知ってたのに、氷河は僕にキスしてくれたの。どうして――」
なぜ彼は、いつも自分を待っていてくれたのだろう――?
瞬にはその訳がわからなかった――否、わかってはいたが、そんなことはありえないと思っていた。

「瞬が、そんなわかりきったことを聞いてくるような野暮な子だとは思わなかった」
氷河は、それを、“ありえないこと”と思ってはいないらしい。
現にそれは ここにあるのだから、氷河の判断は現実的かつ論理的なものだったろう。
「俺は外見にはこだわらない男なんだ。大事なのは外側より中身だろう」
瞬の心臓の上に人差し指で触れて、氷河が微笑する。

「……」
これはそういう問題なのか、それで片付けてしまっていいことなのか――。
現実的でも論理的でもない代わりに 倫理的かつ常識的な瞬は、氷河の言葉に戸惑い迷った。
その迷いも、ほんの数秒程度のものだったが。
瞬の中にある倫理と常識を、瞬の心が一蹴する。
それで片付けてしまわずにいられないほど、瞬の心は氷河を求めていたのだ。

「騙すつもりじゃなかったんだ! 僕はただ氷河と一緒にいたかっただけ……!」
心が、瞬の身体を動かす。
瞬が気付いた時にはもう、瞬の身体は氷河の胸に飛び込み、その背にまわした手で、必死に彼にしがみついてしまっていた。
氷河が、そんな瞬を抱きとめ、抱きしめる。
「俺もだ。だから、許してくれ」

氷河の唇が瞬の唇の上におりてくる。
外見にこだわりすぎていたのは、他の誰よりも自分自身だったのだと、その時 瞬は初めて自覚した。
そして、そのこだわりを捨てさえすれば、自分はこれからも氷河と一緒にいられるのだと理解する。
瞬は、もちろん、即座にそれを捨て去った。



「おまえらみたいなカップルが、外見にこだわってないなんて言い張るのは詐欺だと思うぞ、俺は」
それが、瞬に氷河を紹介された時の星矢の率直なご意見ご感想だった。
だが本当に瞬は、今ではそんなものに 微塵もこだわっていなかったのである。






Fin.






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