瞬の国の東に面している東夷とういの国が国境を越え、華胥国内に軍を進めてきたのは、氷河が北狄の軍を率いて華胥の都に入ってから ひと月後のことだった。
東夷は、西戎ほど古い国ではないが、北狄ほど新興の国でもない。
西戎はともかく、北狄にできたことが己れにできないはずがないと考えたのか、衝動的に侵略を決意したのか――いずれにしても、東夷の進軍は、ありとあらゆる者に 寝耳に水の出来事だった。
氷河の無言の、そして熱い眼差しに悩ませられ続けていた瞬は、その一報を聞いた時、それこそ背筋に冷水を浴びせかけられたような思いをすることになったのである。

『戦を始めれば、氷河の支配は2年ともたない』
そう予言したのは、他の誰でもない瞬自身だった。
瞬の予言を喜んだ北狄の者たちの手によって、それは華胥の民の知るところとなっている。
氷河が北狄の軍を率いて東夷軍を迎え撃てば、戦を起こす者の支配は2年と信じている民の心は――せっかく、西戎とは違う政治を北狄に期待しかけている民の心が――北狄から離れてしまいかねない。
今 華胥の国を立て直すための指導力を持ち、その意思を持っている人間は 氷河しかいないというのに――である。

『戦をしなければ氷河の支配が続く』という予言を、瞬は、『この国に戦を持ち込まないでくれ』という願いゆえに口にした。
それが見事に裏目に出たことになる。
こんな失策をしでかしたのは、瞬はこれが初めてだった。
なるほど自分はただの人間にすぎないのだと、瞬は今更ながらに、そして再度、思い知ることになったのである。
そして、国の行く末を案じ、氷河の行く末を案じて、不安になった。

一度は死を覚悟した身、なぜ自分は、いったい何に対して不安になっているのかと 思わなかったわけではない。
もう10年も前から、瞬はこの国への責任を負わされることのない立場に置かれているのだ。――心情的にはともかく、政治上では。
華胥の国は、今は瞬が責任を負う必要も義理もない国なのだ。

だが、この国は、瞬の生まれた国、父祖の愛した国、瞬を信じる民のいる国、そして、氷河が復興のために尽力している国――である。
東夷軍の対応に、国の命運と、もしかしたら氷河の命までがかかっている。
それまで、なるべく意識の外に追いやろうとしていた氷河の眼差しを思い浮かべ――そして、瞬は考え始めた。

東夷の国は、なぜこんなにも突然に華胥の国に攻め入ってきたのか。
その必要があったのか。
ただの野心ゆえか。
あるいは、その両方が動機なのか。

華胥の国の難民は、そのほとんどが氷河の国に流れていっている。
それは、現在の東夷の国の政情が安定しておらず、国自体が豊かではないということを示している。
ある程度の武力はあっても、民の生活は貧しいということだった。
常備の軍を養う経済力はなく、あったとしても規模は小さく、東夷軍には強制的に駆り出された民間人が相当数含まれているに違いない。
遠征軍が持久力を有しているとは思えないし、統制が取れているとも考えにくい。
東夷軍は、機動力のある北狄の軍が戦って勝てない相手ではないだろう。
だが、戦はできない――。

考えに考えて、最後に瞬が辿り着いた結論は、『東夷の国を富ませてやればいい』というものだった。






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