パンがなくなったと、ヒョウガはシュンに告げられた。 「でも、僕は町に行きたくない。もう、ここ以外のどこにも行きたくない」 ――と。 シュンがなぜそんなことを言うのか、ヒョウガにはわからないでもなかった。 ここを離れて他人に会うことで――正しく第三者に会うことで――、シュンは二人だけの世界が失われてしまうのではないかという恐れを抱いているのだ。 だが、生きる目的のない自分はともかく、シュンを飢えで死なせてしまうわけにはいかない。 ヒョウガは、自分がシュンの代わりに町に行き、パンを買ってくることを提案した。 「すぐに帰ってくる。俺はもっとずっとおまえを抱いていたい。飢えて死んだら、それもできなくなる」 行かないでくれとすがるシュンをそう言ってなだめ、ヒョウガは東の港へと向かったのである。 シュンを一人では生きていられないものにしてしまったかもしれない――と、町に向かう道すがら、ヒョウガは後悔のようなものを覚え始めていた。 だが、そうすることの何が悪いのだという気持ちもないわけではない。 ヒョウガと身体を交えている時、シュンは今でも時折 兄を呼ぶのだ。 そういうことを繰り返されていれば、より強く――シュンの兄よりも強い力で――シュンを支配したいという気持ちが大きくなるのは当然のことではないか。 そんな残酷な所業をしてくれるシュンに、それでも心配をかけないために、ヒョウガは町で必要なものを購入すると帰途を急いだ。 ヒョウガが二人の生活の場に帰ってきた時、だが、シュンは一人ではなかった。 あろうことか、時折二人で抱き合ったこともある砂浜では、シュンとオスマントルコのスルタンが放った刺客が対峙していたのである。 それだけならば、ヒョウガは、自身の迂闊に臍を噛むだけで済んだだろう。 3年の長きに渡って付き合ってきた暗殺者である。 彼が無関係な者に危害を加えるような男ではないことを、ヒョウガは知っていた。 ヒョウガが驚いたのは、だから、そんなことではなく――シュンがトルコの刺客に向かって、 「僕がヒョウガだ。僕を殺して」 と、おかしなことを訴えていたせいだった。 「シュン、何をしている! さっさと家に戻ってろ!」 手にしていたものをその場に投げ捨てて、ヒョウガは浜に駆けおりた。 馬鹿な真似をしたと、ヒョウガは思ったのである。 せめて剣を抜いてから異教徒の刺客に立ち向かっていけばよかったものを、シュンの身を安全な場所に移すことに気をとられ、ヒョウガは二人の間に得物も持たずに割り込んでいった。 その千載一遇の機会を暗殺者が逃すはずがない。 次の瞬間、ヒョウガはシュンの身にその手で触れる前に、暗殺者の半月刀に右の肩を深く切りつけられていた。 「ヒョウガっ!」 負った傷は浅いものではなかったが、ヒョウガは左の手で剣を使うこともできた。 敵は闘って勝てない相手でもなかったし、実際これまでヒョウガは殺気を帯びた彼の剣から幾度となく逃げおおせてきた。 彼を倒しても、また別の刺客が放たれるだけだということがわかっていたから、ヒョウガは彼を倒すことをせずにいただけなのである。 だが――。 こんな地の果てのようなところまで やってきたというのに、捜し求める人は見付からない。 捜せる場所は捜し尽くし、できることもやり尽くした。 ヒョウガを追い続けてきたこの異教徒も、いい加減に故郷に帰りたいと思っているに違いないのだ――。 ヒョウガは、シュンに支えられている身体の重心をわざとずらし、自分から砂の上に倒れ込んだ。 肩から流れ出る血と命とが、砂に吸い込まれていく。 「ヒョウガ……そんな、どうして――」 あの海の底の色をした瞳に涙を浮かべて瀕死の異邦人にすがりついてくるシュンに、なぜかヒョウガは、ほとんどこれが初めてと言っていいほどに屈託のない笑みを向けていた。 それから、ヒョウガはトルコの刺客に視線を投げた。 「俺は、大人しくここで死んでやる。俺の持ち物と髪でも持っていけば、スルタンは納得するだろう。シュンは何も知らない。見逃してやってくれ」 商人を装った黒尽くめの衣装を身に着けたトルコの刺客は、不思議なものを見るような目で、砂の上に倒れているヒョウガを見おろしていた。 3年もの間 手練れの暗殺者を散々てこずらせてくれた男が、ほとんど無抵抗で死んでくれることなど、彼にはありえないことだったらしい。 「3年間も故国を留守にさせた。悪かったな」 今頃詫びを入れてくるくらいなら、3年前に大人しくエディルネの宮殿で処刑されていてほしかったと、刺客の黒い瞳は言っていた。 ともかく、彼はそれで彼の剣を収め、シュンがヒョウガの身体を抱き起こそうとするのを妨げようとはしなかった。 「このままにしておいてくれ」 怪我人を抱き起こそうとするシュンの手を拒んだのは、ヒョウガの方だった。 彼はシュンの手を受け入れる代わりに、自身の動く方の手を伸ばし、シュンの頬に触れた。 「シュン、おまえはここを出て町に行った方がいい。一人でいるのはよくない。おまえには似合わない」 シュンにそう告げてから、ヒョウガは、生きようという気持ちを捨ててしまえば人間は存外簡単に死ねるものだと思いながら目を閉じた。 これ以上シュンの泣き顔を見ていると未練が生まれ、目的もないのに、また だらだらと生き続けることになってしまうような気がしてならなかった。 そのまま――失血が進み、ヒョウガは死ねるはずだったのである。 「な……何を言ってるのっ! ヒョウガは心臓をえぐられたわけでも、腕を切り落とされたわけでも――こんな傷くらいで死ぬつもりっ! だめ! 死なないで! 諦めないで! そしたら、お母さんのこと教えてあげる! 諦めないでっ」 そう、シュンが悲鳴のように叫びさえしなければ。 なぜシュンが母のことを知っているのかと疑い、もう少しの間だけ生きていたいと思った瞬間に、失血が限界に来て、ヒョウガは意識を失った。 |