一晩が過ぎても、氷河の不機嫌はまだ継続していた。
実を言うと、この事態を理不尽に思う紫龍の割り切れなさもまだ続いていたのだが、仲間たちのそんな心情には全くお構いなしで、瞬はその日もまた、朝から奇妙なことを言い出したのである。
「僕、カレーを作ろうと思うんだ」
「カレー? なぜ今カレーなんだ?」
紫龍は、突然 訳のわからないことを言い出した瞬に、ごく自然かつ当然の質問を投げかけた。

その質問に対して瞬から返ってきた答えは、
「うん、本格的なの。エチオピア風の」
という、答えになっていないもの。
その上、瞬は、またしても、氷河の機嫌を悪くするようなことを、紫龍に求めてきたのである。
「紫龍、タマネギ切るのを手伝ってよ」
「なぜ、俺が」
「氷河も星矢も不器用でそんなことできそうにないじゃない」
「俺が聞きたいのはそんなことじゃなく――」

紫龍が知りたいことは、氷河や星矢の料理の才能の有無ではなく、なぜそんな奇妙な提案をしてきた瞬自身がその作業をしないのかということだった。
そして、瞬はなぜ こうも氷河の神経を逆撫でするようなことばかりしでかしてくれるのか、ということだったのである。

その件に関して紫龍は、納得のいく答えを瞬から得ることはできなかった。
というより、彼はそれどころではなくなってしまったのである。
カレー作りの手伝いをしぶる紫龍に、瞬は、卑怯にも泣き落としの技を放ってきたのだ。
「紫龍、僕の頼みをきいてくれないの……」
心底から悲しそうに、瞬がその瞳にじわりと涙をにじませる。
その様を見た氷河の視線が、次に紫龍の上に巡ってきた時、彼の灰青色の瞳には殺気が込もっていた。
瞬の手伝いを断っても手伝っても、氷河は龍座の聖闘士を憎むに違いない。
となれば、瞬に泣かれずに済む方がまだましというものである。
なにより、紫龍は、こうなってもまだ、氷河より瞬の方が恐かったのだ。

「誠心誠意、努めさせていただきます」
紫龍としては、そう答えるしかなかったのである。
仕方がないではないか。
紫龍は 氷河や瞬に比べれば常識人であり、いつの世でも、どこの国でも、常識人はつらい思いを耐えて生きていくことしかできないようになっている。
それが世間というものなのだ。

「ありがとう、紫龍!」
瞬は、涙という武器を自由自在に操ることのできる最強の聖闘士である。
自分が望む通りの返事を手に入れると、瞬は、その瞳を潤ませていた彼の最大の武器を即座に引っ込めて、今を盛りと咲き誇る花のような満面の笑みを紫龍に向けてきた。
氷河の視線の殺気がマイナス273.15度に近付きつつあるのを全身に痛いほど感じつつ、紫龍は、軽快な足取りの瞬に従って、とぼとぼと城戸邸の厨房に向かったのである。






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