涙という武器を使う人間は実に卑怯だと思う。 そんな武器に手もなく屈してしまった俺は、証明不要の大馬鹿だ。 俺は、その日以降、マーマの再婚以来2日とあけずに世話になっていた牛丼屋のドアを開けることができなくなってしまった。 瞬の涙が、俺に外食を許してくれなかった。 ――というか、翌日から瞬は下校時に俺を待ち伏せるようになってしまったんだ。 何のためかと言えば、俺を荷物持ちとして使うために。 瞬は、下校途中でスーパーに寄り、そこで買った食材を俺に家まで運ばせる。 どうせ墨しか作れないくせに 瞬は生意気にあれこれ食材を買い込んでは悦に入っていた。 俺は瞬の作る墨を食うために、毎日瞬に顎でこき使われる情けない男になりさがってしまったんだ。 もっとも瞬の買い出しに付き合わされているうちに 少しずつ知恵がついてきた俺は、やがてショッピングカートの中に何気なく出来合いの惣菜を紛れ込ませることを覚えた。 それがなかったら、俺は栄養失調で早々に病院に担ぎ込まれていたに違いない。 そのために――瞬の気に障らない程度に目立たない惣菜を1パック買い込むために――俺は瞬の買い物に付き合わざるを得なかった。 クラスのオトコ共は、そんな俺の忍耐と苦労も知らず――俺の不機嫌に恐れを為して事情を聞くこともできなかったんだろうが――校内一の美少女につきまとわれている俺を羨んでいるようだった。 瞬が男だということは知っているはずなのに、奴等はかなり真剣に俺を羨ましがっていた。 そして、だが、そんなふうに俺を羨んでいる奴等の中には、俺より不味いメシを食っている奴はただの一人もいないんだと思うと、俺の苛立ちは いや増しに増すばかりだった。 料理だけじゃなく、瞬は掃除も下手だった。 掃除が下手というより、整理整頓ができないんだ。 俺も以前は物をあちこちに放り投げておく男だったが、それでも一人暮らしを始めてからは、物を片付けないでいると掃除が面倒になるという事実に気付いて、その癖を直しつつあった。 なのに瞬は、そんな俺の努力をあざわらうように、気楽に部屋を散らかしてまわる。 いったい瞬はこれまで どういうだらしない生活をしていたのかと、だらしない男の代表格だった俺が疑うほど、瞬のだらしなさは徹底していた。 家族の共有スペースであるリビングに、あまりにも瞬が私物を置きっぱなしにするのに腹を立て、一度 それらを全部抱えて瞬の部屋に放り投げに行ったことがあるんだが、瞬の奴は、自分の部屋だけはちゃっかりと綺麗に整理整頓していやがった。 散らかすほど大量に物を持ってきていないという事情もあったろうが、その部屋は見事に整然としていた。 寝具にも乱れはなく、床には紙くず一つ落ちていない。 机の上には料理の本が数冊、2ミリのずれもなく重ねられていた。 瞬が料理の勉強をしているのは口先だけのことではなかったらしい。 瞬が健気なのは、認めたくはないが事実だった。 キッチンで食事の支度をしている時の瞬は、その様子を眺めているだけの俺が我知らず肩に力を入れてしまうほど真剣で、緊張もしていた。 特筆すべきは、瞬のアイロン掛けの技術だろう。 瞬が来るまで、俺は、Yシャツやジャケットの類の洗濯はすべてクリーニング屋に出していたんだが、瞬は、それは不経済だと文句を言って、クリーニング屋の利用を一切やめることを宣言した。 「じゃあ、俺は毎日学校に何を着ていけばいいんだ」 とクレームをつけた俺に、瞬は、しばし考え込む素振りを見せてから、 「僕、料理や整理整頓は駄目だけど、アイロン掛けだけはうまいの。最近の洗濯機は性能がいいし――家の中のことはともかく、氷河に外でだらしない格好はさせませんから」 と言い切ってみせた。 言葉通り、瞬はアイロン掛けだけはうまかった。 どんなものもすいすいと鮮やかに形を整えていく。 アイロン掛けなんてものは、その気になれば誰にでもできるものだと思っていたんだが、ある時、俺が持っていたハンカチを見た紫龍に、 「ハンカチにうまくアイロンを掛けるのは、簡単そうでかなりの高等技術なんだ。瞬が掛けたのか? さすがだな」 と言われて、俺は瞬のアイロン掛けの技術の高さを認めることになった。 何がさすがなのかはともかく、その点に関してだけは瞬を見直した。 |