瞬のために 樫の木でできた小さな扉を開けてやると、氷河の頭上でチリンとドアベルの音がした。
そこは確かに、いかにも瞬が好みそうな店だった。
ヴィクトリアンスタイルの家具、ダブルハングの窓辺には白やピンクのネメシアメロウの鉢植えが並べられ、店内には窓から射し込む冬のやわらかな陽射し以外のBGMはない。
テーブルも2人掛けの小さなものが4つあるきりで、いかにも夢見がちな主婦が趣味で開いたハンドメイドケーキの店といった風情をしている。

「いらっしゃい」
客を迎える言葉が『いらっしゃいませ』でないところを見ると、瞬は既にその店の店主と顔馴染みになっているらしい。
店主は30前後とおぼしき 世間ずれしていないのんびりした様子の女性で、彼女は瞬の後ろに目付きの悪い金髪の男がいるのに気付くと、かなりの間を置いてから、自分の言葉に『ませ』を付け加えた。
彼女は、最初は氷河を瞬の連れだとは思わなかったらしい。
そして、氷河がこの店の客としてふさわしい人物だとも思わなかったようだった。

それも無理からぬ話である。
なにしろ、彼女が目指しているのは 素朴で自然な赤毛のアンの世界。
そこに陰謀渦巻く17世紀フランス宮廷の雰囲気を持ち込まれては困る――とでも、彼女は思ったに違いない。
しかし、その目付きの悪い金髪の貴公子が――本当は奇行師なのだが――瞬と同じテーブルに着くのを見て、彼女は彼女の世界がしばし乱されることを我慢する決意をしたようだった。
「ここ、コーヒーはないから、お茶かジュースにして」
瞬にそう言われた氷河が、大人しくダージリンをオーダーしたことも、彼女を安心させるのに役立ったらしい。

そうして安心した彼女は、氷河と瞬の前に紅茶のポットとカップを出すと、実に商売気のないことを言い出した。
「しばらく外に『準備中』のプレートを出しておいてもいいかしら。息子を幼稚園まで迎えに行く時間なの。もちろん、瞬ちゃんはお店にいていいわよ」
いったい彼女は本当に飲食店営業許可を得て この店を経営しているのだろうかと、その無責任かつ無用心な言葉に、氷河は心底から呆れてしまったのである。

とはいえ、彼女自身、自分が『息子のお迎え』に出なければならないことを、心から望んでいるわけではないようだった。
店には先客がいた。
店主がちらりと奥のテーブルに視線を投げる。
どうやらそのテーブルに着いている客が問題の中学生らしく、彼女は、昨日その少年と瞬の間にあったことを知っているらしい。
つまり彼女は本当はこの場にいて、氷河という新しい登場人物によって形成されることになった三角関係の落ち着き先を、自分の目と耳で確かめたいと望んでいるのだ。

だが、息子のお迎えには行かなければならない。
彼女はいかにも後ろ髪引かれるといった様子で、彼女の店を出ていったのだった。






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