「クロ、いつまで寝てるんだ。遅刻するぞ。瞬はとっくの昔に起きてるのに」
双子の兄である一輝の声が不機嫌な響きを乗せているのは いつものことだった。
その声に起床を促され、クロが嫌々ながら目を開ける。

血の繋がった実の兄弟でありながら、クロは、自分たちの兄が毎日何をしているのかを知らなかった。
ただ彼が多忙なことは事実で、週に1、2度しか自宅には帰ってこない。
クロは、ごくたまに兄がグラード財団のなにがしと連絡をとっている場面に出くわしたことはあったが、一輝は別にその組織の一員というわけでもないらしい。
いずれにしても、彼が普通のサラリーマンでないことは確かだった。
兄は、グラード財団を主たるクライアントとするフリーランスの諜報員のような仕事をしているのだろうと、クロは勝手に想像していた。

兄は何も語らないし、クロも兄の仕事には関心がなかった。
普通のサラリーマンの4、5倍にあたる金額を毎月家に入れることが可能な兄の仕事を、詰まらない詮索で失う愚は犯したくない。
親のいない兄弟が何不自由なく暮らしていられるのは、兄の多忙のおかげなのだ。
その兄が、数日振りに昨夜は帰宅していたらしかった。

「なんで俺ばっかり、犬みたいにクロクロ呼ばれるんだよ! 瞬はちゃんと瞬って呼ばれてるのに!」
寝穢いぎたない弟をわざわざ部屋まで起こしにきてくれた長兄に、『おかえり』も『久し振り』も言わず、クロは毒づいた。
目上の者を敬う気配もない弟の口の悪さに、一輝は眉ひとつ動かさない。

「わざと呼んでるんだ。おまえはクロクロ呼ばれる方が目覚めがいいからな。戸籍上の名前で呼んでほしかったら、せめて一人で起きれるようになることだ。早くメシを食って、瞬と一緒に学校へ行け。瞬と氷河を二人きりにするな」
「氷河の奴、もう来てんのかよ」
「玄関で瞬のお出ましを待っている」
「……ったく!」
その事実を知らされてしまっては、いつまでもベッドにしがみついているわけにはいかない。
クロはしぶしぶ、心地良く温かいベッドから抜け出す決意をした。

氷河というのは、クロたちの幼馴染み――というより、瞬の幼馴染みだった。
ロシア人とのハーフで、幼い頃はロシアで暮らしていたらしい。
実母の死をきっかけに、日本にいる父親に引き取られたのだが、彼の父は息子の渡日を歓迎していたわけではなく――氷河の両親は正式な夫婦ではなかった――父親としての役目を、愛情からではなく義務感から果たそうとするような男だった。

彼の父は、日本にやってきたばかりの幼い氷河に部屋を与え、身のまわりの世話をする専用のハウスキーパーをつけ、ごく普通の日本の幼稚園に放り込み、それで自らの務めを果たしたつもりになったらしい。
ほとんど日本語を操れなかった氷河は、当然そこで友だちの一人もできず孤立することになったのである。――その存在を、瞬に気付いてもらえるまで。
片言の日本語しか喋れない氷河に、瞬は辛抱強く接し、氷河は異国で初めて“優しい”人間に出会った。
それ以来、氷河は、それこそ忠犬のように瞬にまとわりついている。

瞬たちより学年は一つ上の氷河を、一輝は嫌っていた。
氷河や瞬が子供の頃はそうでもなかったのだが、氷河が長ずるにつれ、いつのまにか二人は犬猿の仲になっていた。
表立って喧嘩や言い争いをするわけではないのだが、顔を合わせても ろくに口もきかない。
それまで瞬と同じ学校に通っていた氷河が中学を卒業して高校に入学した時には、一輝は、二人の通う学校が別々になったというので、祝杯をあげたほどだった。
もっとも、その1年後には、瞬とクロは氷河と同じ高校の生徒になり、再び一輝を苦らせることになったのだが。

たまに帰宅した際、一輝が必ずクロを叩き起こすのは、瞬と氷河の間にクロを送り込み、二人が二人きりで登校するのを妨げるため。
クロはまさに二人の番犬。二人が親密になるのを邪魔することが、兄一輝によってクロに与えられた絶対服従の至上命令だった。
クロが一輝に逆らわないのは、それが毎日のことではないから、一輝が家に入れる金のおかげで自分が生きていられることを知っているから、そして、一輝の心配がクロにもわかるからだった。
瞬はともかく、氷河はどう見ても 同性の瞬を恋愛対象として見ていた。

「たまに帰ってきたかと思えば、やることは可愛い弟を犬みたいに呼ぶことだけかよ、あのクソ兄貴!」
小学生の集団登校ではあるまいに 毎日律儀に瞬を学校に誘いに来る氷河と瞬の間に立って、クロは長兄への不満をぶちまけた。
瞬は苦笑しつつ、そんなクロをなだめ、氷河はそんな瞬を無言で見詰めている。
帰宅のたびに一輝に命じられなくても、それはいつもの朝の光景だった。






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