瞬は、首のほとんどを覆い隠す白いセーターに着替えて、心配そうな目をしてリビングのソファに腰をおろし、クロの帰りを待っていた。
自らの受けた暴力を嘆くでもなく、取り乱して泣きわめくこともせず、ただただ心許なげに佇んでいる瞬のその様子を見た途端に、氷河にぶつけ損なった激昂がクロの中に蘇ってくる。
瞬がその理不尽に怒りを感じる力もないというのなら、クロがその役目を担わなければならなかった。

「瞬、誰にやられたんだ! 俺がカタキをとってやる。俺がそいつを殺してやる!」
「え……?」
「氷河は何してやがったんだよ! 瞬に夜道を一人で歩かせるようなことしやがって、忠犬失格だろ!」
「クロちゃん……」

しょんぼりした様子で、やっと帰ってきたと思うと、突然自分の片割れの前でわめきたて始めたクロの言葉に、瞬が瞳を見開く。
少し不自然に思えるほどの間をおいてから、瞬は、いかにもとってつけたようにぎこちない笑みを、その顔に浮かべた。
「そんな物騒なことしなくていいよ。……クロちゃん、何か誤解してるでしょ。僕はただ転んだだけだよ」
「転んだだけで、おまえは服のボタンまで飛ばすのかっ。どーすりゃ、そんな器用な転び方ができるんだっ!」
「それは……」

瞬は返事に窮したらしい。
一度は何ごとかを言いかけたが、瞬はすぐにその顔を伏せてしまった。
やはりそうなのだと確信したクロが、両手で瞬の肩を掴み、力任せに揺さぶる。
「ほんとのこと言えっ! 誰にやられたんだ!」

クロに問い詰められても、瞬は長い沈黙を守っていた。
その間 瞬が何を考えていたのかはクロにはわからなかったのだが、やがて重苦しい沈黙を破って瞬が口にした言葉は、
「氷河……」
というものだった。

「え?」
絶対にありえない男の名を出されたクロが、虚を衝かれたような顔になる。
「氷河だよ、あれは。だからいいんだ……」
「瞬……」
瞬がクロに向ける微笑は、何かどこかが歪んでいた。
瞬の苦しげな笑みを見て、クロの頬からは血の気が失せてしまったのである。
自分の身の上に起こったことを認めたくなくて、傷付きたくなくて、瞬は、それが氷河によって為されたことだと思い込もうとしている――。
クロには、そうなのだとか思えなかった。

氷河がそんなことをするはずがないではないか。
瞬の馬鹿な弟が用意した据え膳すら、瞬の気持ちを考えて食らおうとしなかった男が、今更そんな愚かな行動に出るはずがない。
だいいち、氷河がもし本気で瞬に迫ったなら、瞬はおそらく簡単に陥落するに決まっていた。
家族以外で、瞬をあれほど理解し、愛し求めている者はいない。
氷河以上に瞬だけを見詰めている男もいない。
そして、瞬もそれを知っているのだ。

だが、クロは、「嘘をつくな」と瞬に言うことはできなかった。
「本当は誰に暴行されたのだ」と問い詰めることは、なおさらできなかった。
瞬に今 そんなことを言ってしまったら、それを氷河のしたことだと思うことで自分自身を守ろうとしている瞬を傷付けてしまう――。
クロはどうすることもできなくなって、瞬の肩を掴んでいた手を放し、その身体をソファに突き戻した。
そして、自らも別のソファに沈み込み、震える二つの拳で自分の目を覆った。

瞬にこんな嘘をつかせる人間が許せない。
見付けて、殺してやりたい――と思う。
だが、もし、瞬への暴行者にそんな制裁を加えたとして――そうすることができたとしたら、その悪党を氷河だと思うことで つらい現実から目を背けようとしている瞬を傷付けることになる。
それは、瞬の受けた傷を無理に白日のもとにさらけだし、更に深く抉る行為になってしまう――のだ。

へたに氷河に知らせるわけにもいかなかった。
瞬の身に降りかかった災難のことを知ったら、瞬の忠犬は取り乱して何をするかわかったものではない。
知ってしまったことで、氷河が瞬を傷付ける可能性もあるのだ。
氷河がどれほど瞬を大事に思っているのかを、クロは知っていた――わかっていた。
その気持ちで負けているような気にさせられるから、クロは氷河が嫌いだったのだ。

瞬を傷付けた者は許せない。
だがその卑劣漢を見付け出し制裁を加えることで、瞬を傷付けたくもない。
どうすればいいのかと懊悩しながら、クロにできることは、ただ音がするほどにきつく奥歯を噛みしめることだけだったのである。

「クロちゃん、ほんとにどうしたの……」
本来ならクロにいたわられ心配されてしかるべきはずの瞬が、逆に気遣わしげな様子でクロの肩に手を伸ばしてくる。
クロの肩に触れる直前で、瞬はその手を止めた。
ちょうどその時、センターテーブルの上に置かれていた瞬の携帯電話が、ホフマンの舟歌のメロディで、電話の着信を主張し出したのである。

電話の主は、クロの言動に胸騒ぎを抑えることができなかったらしい氷河からだった。
電話を取った瞬が、なぜか平生より落ち着いているように聞こえる口調で、氷河に事の次第を説明する。
「なんでもないの。今日、氷河と別れてから、公園でね、小さな子供たちが遊んでるのに気付いたんだよ。なんだか小さい頃の僕たちみたいだなあ……って思って、その子たちをぼうっと眺めてたら帰りが遅くなって、そしたらクロちゃんの機嫌を損ねちゃったみたい。心配しないで」

瞬に乱暴を働いたのが本当に氷河なのであれば、瞬は氷河にそんな作り話をする必要はない。
クロに告げた言葉と氷河に告げた言葉の矛盾に、瞬はまるで気がついていないようだった。






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