「おまえが仕組んだのか……!」 氷河は瞬を責めたわけではなかった。 彼はただ、まさかクロではあるまいに、瞬がそんな企みを企んだという事実に驚いただけだった。 瞬が、ほんの少し緊張したような表情で小さく頷く。 「あれは ほんとに――ただの事故だったんだよ。緑内障で視野が欠けてる人が乗ってる自転車にぶつかられて、転んじゃっただけ。前カゴに首輪とリードをつけたままの やたらと元気な小犬が乗っててね。その子がリードに首をからませないように変な態勢で受けとめてから倒れたから、肩と頭を打って、しばらく脳震盪を起こしてたんだ。砂利道だったから、制服や肌もあちこち切れちゃって、抱きとめた小犬に暴れられたせいでボタンは飛ぶし、ひっかき傷はつけられるしで――。自転車って車両扱いでしょ。へたすると重過失致死傷になっちゃうから、自転車に乗ってたおじさんと 事故はなかったことにしようって話を決めてから別れたの。だからクロちゃんには内緒にしとこうと思ったのに……」 「それをクロが誤解したのか」 氷河の言葉に、瞬がまた浅く頷く。 「なんでそんな誤解を――って思ったけど、僕はクロちゃんの誤解に気付いた時、クロちゃんの誤解を利用することを思いついたんだ」 クロがなぜそんな誤解をしたのか――。 氷河にはその理由がわかるような気がしたのである。 クロがいつ 自分の片割れとその幼馴染みの関係に気付いたのかを氷河は知らなかったが、そうと知った日から毎日、クロは、瞬が自分以外の誰かのものになり汚されることを何よりも恐れ厭うていたに違いない。 自分が瞬に何を求めているのかを、氷河は その眼差しから隠そうとしたことはなかったし、クロにはそれが不愉快でならなかったのだろう。 「クロちゃんが、いもしない暴行者を殺してやるって言った時、僕はクロちゃんの誤解に気付いたんだけど……。もしかしたら、本当にただの事故でも、クロちゃんは同じことを考えるのかもしれないって、その時ふっと思ったんだ。そしたら急に怖くなって……」 瞬の懸念は、おそらく杞憂ではない。 まだ幼く無分別な子供が子猫一匹をいじめることさえ絶対に許せないクロ。 危害を加えられた者が、もし猫ではなく瞬だったなら、それが事故でも暴力でも、クロは瞬を傷付けた相手を殺してやりたいと思うほどに憎悪するに違いないのだ。 「だから、僕は賭けてみることにしたんだ。クロちゃんは、クロちゃんの信じる正義と 僕の心のどっちを選ぶのか」 「おまえが人の心を試すようなことを――」 ――するとは思わなかった。 氷河は、瞬の告白に、非常に純粋な――他のいかなる感情も混じらない純粋な――驚きを覚えた。 そんな氷河に、瞬がまた色のない笑みを向けてくる。 そして瞬は、いつものように優しい響きの声で、氷河にきっぱりと断言した。 「クロちゃんのためなら、僕はどんなにひどいことも卑怯なこともするって言ったでしょ。クロちゃんのためになら、僕はクロちゃんを騙すこともするし、嘘もつくよ」 「瞬……」 誰に対しても優しく、同情心が豊かで、それゆえ人に好かれる瞬。 人の目に、歳不相応なほど清純に純粋に映る瞬。 その優しさが偽りだとは思わない。 その清純な風情や印象が見掛けだけのものだとも思わない。 だが、瞬は単純に純粋な人間ではないのだ。 他人に優しくできる人間は、そもそも純粋なものではありえない。 人の弱さや罪を許せる、ある意味で不純な部分がなくては、人は人に対して優しくなることはできないのだ。 瞬の言う通り、真に純粋なのは、真に清らかなのは、クロの方なのかもしれなかった。 しかし、クロのそれは、勧善懲悪の物語や映画に興じる子供の純粋さと大差のないものである。 そして、二人のうちで より強いのは、どう考えても、クロではなく瞬の方だった。 「僕を嫌いになった?」 瞬が氷河の瞳を見上げるようにして尋ねてくる。 縦にも横にも首を振ることができず、氷河はただ、 「こんなにも おまえに思われているクロが妬ましい」 とだけ答えた。 「だが、よかった。ただの事故で」 心底から、氷河はそう思ったのである。 瞬が愛し、瞬が生きている世界を、これで自分は憎まずに済む。 氷河は、何よりもそのことに深い安堵を覚えた。 身体の奥に溜め込んでいた不安と緊張をすべて吐き出すように長い吐息を洩らした氷河を見て、瞬は――瞬こそが不安と緊張を取り除かれたような顔になったのである。 そして、ひどく切なそうな目で氷河を見詰め、瞬は言った。 「氷河のためにだって、僕は何でもするよ」 「……」 瞬のその言葉は事実かもしれない。 おそらく事実だろう。 瞬はこんなことで軽々しい発言をするような人間ではない。 だが、氷河は――瞬にそこまで思われているクロが妬ましいと、瞬に告げた氷河は――左右に首を振らずにはいられなかったのである。 「俺はおまえにそんなことはさせたくない。おまえがいてくれさえすれば、俺は妙な迷路には迷い込まない」 その言葉に僅かに目をみはった瞬を引き寄せ、抱きしめ、唇を重ねる。 氷河のキスを受けとめた瞬は、今日もその行為に怯えているように小さく身体を震わせていた。 唇を離し、瞬の顔を見詰める。 氷河に少し遅れて開かれた瞬の目には僅かに涙がにじんでいた。 目許が少し赤味を帯びている。 (瞬……?) その時、泣きはらしたあとのような瞬の瞳を見ることになった氷河の内に、ふと ある考えが生まれてきたのである。 瞬は、自分がクロの心を試したことを、彼の幼馴染みに隠し通すつもりはなかったのだろう。 現に、瞬はこうして、尋ねられもしないのに、その事実を氷河に打ち明けた。 瞬はもしかしたら、クロの気持ちを試しながら、そうすることで自分が自分の忠犬に幻滅され嫌われることを覚悟していたのかもしれない。 だが、瞬は、クロのためにその覚悟を決めた。 それは、瞬が“氷河”よりクロの方を大事に思っているからではなく、もしかしたら――もしかしたら、クロよりも“氷河”の方を我が身に近しい存在だと思っていたからなのではないだろうか。 瞬は幼い頃から、我が身を犠牲にして人を救おうとする人間だった――。 うぬぼれかもしれない――と思いはしたのだが、氷河は、そう考えると、瞬の不自然な言動にも説明がつくと思ったのである。 その男に大切にされることがわかっているのに、瞬が瞬を求めてやまない男と身体を交えることを怖れる理由も、それで説明できる。 我が身とも思っている相手と肉体的に一つになってしまったら、自分はどうなってしまうのか。 その結果を想像することさえできないことが、瞬は不安なのだろう。 瞬は、もしかしたら――おそらく――自分の唇を求める男の欲望を恐れているのではなく、その男を好きだという気持ちが強すぎて、文字通り心に身体が追いつかず、不安を覚えているだけなのだ。 それは とんでもないうぬぼれなのかもしれなかったが、氷河はうぬぼれてしまうことにした。 だから、今はキスだけでいい。 氷河が瞬の唇を指でなぞると、その唇は わななくように、 「氷河が好き」 という言葉を氷河の指先に伝えてきた。 |