「あの……僕、心当たりがないでもないの――」
なぜ彼がエティオピアに害を為そうとするのかはわからないが、十中八九これは海神ポセイドンの仕業だろう――ヒョウガがシュンに その可能性を伝えると、シュンはヒョウガが辿り着いた答えに驚くどころか――驚きはしたようだったが、すぐにその驚きを消し去って――気弱な目でヒョウガを見詰めてきた。

「エティオピアはポセイドンの機嫌を損ねるようなことをしたのか」
思いがけないシュンの言葉に、ヒョウガが眉根を寄せ尋ねる。
「エティオピアではなく、僕が――」
「どういうことだ」

この、いかにも害のなさそうな善良な王子様に、どうすれば神の機嫌を損ねるなどという大胆なことができるのか、ヒョウガには全く想像ができなかった。
人間なら――自分を善良だと思ってしまえずにいる人間なら――シュンの善良さが気に障るということもあるだろう。
しかし、相手は神――人間に従順と畏敬を求める神なのである。
シュンは最も神に好まれる類の人間のはずだった。
が、人間は、従順で善良であれば敵を作らずに生きていけるものとは限らないらしい。
そして、災難には、人間が自ら招くものと、勝手に向こうから飛び込んでくるものの2種類があるようだった。

「最初はハーデス様だった。冥界の王が僕を欲しいと言ってきたの。唐突な申し出に僕や兄が返答できずにいるうちに、まるでハーデス様に対抗するようにゼウス様やポセイドン様も同じことを言い出して、僕はその申し出を受ける受けないの答えを出す前に、三柱の神様方の誰かを選ばなければならないようなことになって――」
「おまえは神々に所望されるような特別な才能を持っているのか」
困ったように顔を伏せてしまったシュンにヒョウガは尋ね、シュンから答えが返ってこないことで、彼は自分が愚問を発したことに気付いたのである。

シュンは美しかった。
清潔で清純そうな風情は愛玩に適しており、素直で気配りのできる性質は、人に――この場合は神に――安らぎと慰めを与えてくれるだろう。
シュンは側に置いて愛でるには最適の生き人形なのだ。

「それにしても、ゼウス、ハーデス、ポセイドンとは……」
兄弟でもある その三柱の神は、かつて天地を支配していたクロノスが倒れた時、世界の支配権を分け合った大神たちである。
その中の一人を選ぶことは、三人の女神の中から最も美しい者を選ぶことより難しく、危険を伴うことでもあったろう。
だが、シュンが今ここにエティオピアの王子として在るということは、彼は三柱の大神の誰も選ばなかったということである。

「生きている時はゼウス様への忠誠と従順を、死してからはハーデス様への忠誠と従順を誓いますから ご容赦くださいとお願いしたんです。アフロディーテ様もお口添えくださって……。あの、僕の命は一生に一度の恋のためにあって、それが運命の神によって定められた僕の運命だから、それを変えることは神にもできない――と」
運命の神は、神の運命をも操る。
運命の神が定めた運命には、神といえども逆らうことはできない。
その神の名を出されては、いかに強大な力を持つ神といえども、無理押しはできなかったのだろう。
三神はシュンを我がものにすることを諦めたが、その際にシュンはポセイドンの顔を立てることができなかった――ということらしい。

「まあ、海で水遊びをする時にはポセイドンに忠誠を――とは言えないな」
ヒョウガが らしくもない軽口を叩いたのは、彼が嫌な予感を覚えていたからだった。
ポセイドンの不機嫌の原因がシュンなのであれば、彼の怒りを鎮めるために必要なものもまたシュンということになる。
子供といって構わないような人間に軽んじられてしまった強大な力を持つ神が、なまなかなことで機嫌を直すとは考えにくいではないか。


『エティオピアの王子を海獣ティアマトの生け贄に奉げよ。そうすることによって、海神の怒りは解けるだろう。それが実行されなければ、土だけでなくエティオピアの国そのものが海の底に沈むことになる』
案の定、ポセイドンがエティオピアに下した神託は、シュンの犠牲を求めるものだった。






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