瞬が、グラード・エンターティンメント社の代表取締役会長を兼任しているグラード財団総帥に頼んで、なかなか手に入らないと評判の噂のCDを融通してもらったのは、春も間近のある日のこと。 それが世間を騒がせている珍奇なものだと聞いて興味を抱いたのか、瞬の仲間たちも城戸邸のオーディオルームでのオペラ鑑賞に付き合うことになった。 一つのオペラ全曲ではなく、有名歌劇の 確かに素晴らしい声で、声域はテノールということになっていたが、本来はバリトン歌手の役であるフィガロのアルマヴィーヴァ伯爵のアリアなども見事に歌いこなしている。 収録曲をすべて聞き終えた瞬は、ほうっと溜め息をつき、 「力強いのに繊細な声で、本当に素晴らしいですね!」 と、感嘆の声を洩らすことになったのである。 そんな瞬の様子を見て、沙織が、どこか虚しさの漂う笑みを浮かべる。 「どれほど素晴らしい声を持っていても、舞台に立てないオペラ歌手なんて……」 溜め息と共にそう呟いた沙織の手には、問題のCDのケースがある。 ジャケットには、ローエングリンの白鳥の騎士の扮装をした若い男性の立ち姿の写真が使われていた。 12センチ四方のケースに収まる大きさの全身写真では顔立ちまでははっきりしないが、オペラ歌手にしては細身で、どうやら頬に肉がつくタイプの男性でないらしく、見栄えは確かに悪くない。 問題の白鳥氏は、中世フランドルの騎士の衣装もそつなく着こなしていた。 「そういえば、このCDは、『白鳥清登という歌手は本当に存在するのか』という謎のせいで売れている部分もあるそうですね。舞台に立つ彼を誰も見たことがないので、彼の声は合成音声なのではないかという噂も流布しているとか」 沙織の呟きを聞いた紫龍が、探りを入れるようにグラード・エンターティンメント社代表取締役会長に尋ねる。 『誘惑のテノール』が合成音声である証拠を手に入れようとして、そのCDを購入している者も少なくないはずだと、これはグラード・エンターティンメント社にヒットを出されてやっかんだ同業他社の僻みなのかもしれないが、そういう噂が一部でまことしやかに囁かれているのは事実だった。 沙織が、いかにも馬鹿馬鹿しいと言いたげな様子で肩をすくめる。 「彼は実在する人物だし、このCDに収められている歌は間違いなく彼が歌ったものよ。合成音声どころか、通して歌ったものをそのまま録音しただけで、編集一つしていないわ」 「なら、彼が舞台に立たないのはなぜなんです?」 アテナの聖闘士たちは、オペラの公演には大規模な舞台装置やオーケストラが必要なことは――つまり、多額の資金が必要なことは――容易に想像できたが、それが彼の舞台デビューを妨げている要因ではないこともまた わかっていた。 だが、彼が所属している『一期会』は日本で最も有名なオペラカンパニーであり、年に4度は国内外の有名歌手を招いてのオペラ興行を打っている。 もちろん、彼の公演が実現すれば、グラード・エンターティンメント社も資金提供を惜しまないだろう。 白鳥氏は実力もあり、バックにも不安のない、これ以上ないほどに恵まれた立場にいる人物なのだ。 「舞台に立てないような容姿でもない。彼の舞台デビューに たった一つの不都合があるとも思えませんが」 「それがねえ……」 紫龍の至極尤もな意見を聞いた沙織の溜め息は、一層深いものになった。 「彼は、ひどいあがり症なのよ。舞台に立つと、声も出せなくなるくらい。限られたスタッフしか入らない狭いスタジオで歌うのは平気なんだけど、客席があるところでは『ぶんぶんぶん』も歌えなくなるらしいわ」 「オペラ歌手があがり症とは、致命的だな」 先ほどからずっと瞬が自分以外の男(の声)に うっとりしているのが気に入らずにいたらしい氷河が、突然勝ち誇ったように言う。 そんな氷河を見て、せっかくの金の卵をどう料理したものか考えあぐねていたグラード財団総帥は 真顔で頷いた。 「彼にもあなたくらいの図太さがあればよかったのに」 沙織の称賛(?)を嫌味と受けとめて、星矢が彼女の発言に力一杯賛同する。 「氷河は、オペラハウスの舞台でも平気であの踊りを踊りかねないもんな。氷河くらい恥を知らない男もそうそういないだろ」 「踊ってやってもいいぞ。どれだけ売れている歌手か何か知らないが、こんなコスプレ野郎より、俺の方がずっと客を呼べる」 横目でちらりとCDジャケットの写真を見やってから、氷河は、今 日本で最も有名なオペラ歌手を鼻で笑った。 「顔がいいだけじゃ駄目なのよ」 沙織にあっさりと 顔だけの男と言われてしまった氷河が、言葉に詰まる。 彼は一応 沙織への反駁を試みようとしたのだが、今 彼の目の前にいる人物が、何よりも地上の平和と安寧を望む女神アテナではなく、企業の利潤追求を第一義とするグラード財団総帥 城戸沙織であることに気付いた彼は、その試みが徒労に終わることだろうことを察し、彼女の発言を撤回させることを諦めたのだった。 |