「氷河、お帰りなさい! どうだった? 白鳥さんてどんな人だった?」
氷河の話を聞きたくて仕方のない瞬は、城戸邸のエントランスに入ってきた氷河の首に飛びついていった。
瞬は、氷河に普通に話を聞こうとすると――彼以外の男の話題を持ち出すと――氷河が不機嫌になることを よく承知していた。
ゆえに瞬は、自分の知りたいことを知るために、氷河に対する好意を前面に押し出して、彼の舌をなめらかにする作戦に出たのである。

瞬の企みを見抜いていてもいなくても、こういう時には必ず瞬の身体を抱きしめ返してくる氷河が、今日に限っては、瞬に抱きつかれても指一本動かそうとしない。
怪訝に思った瞬は、氷河の表情を確かめようとして、氷河に抱きついたままの格好で、その顔を上向かせた。
その拍子に、氷河の斜め後方に氷河以外の人物の姿があることに気付く。

「わ……白鳥さん !? 」
同行者がいたから、氷河は彼らしくなく人目をはばかったのだろう――と、腑に落ちないながらも考えて、瞬は、氷河の首にまわしていた自分の腕をほどいた。
慌てて場を取り繕い、日本一有名なオペラ歌手のために歓迎の笑顔を作る。
「失礼しました。白鳥さんがご一緒だったなんて……。あの、僕、白鳥さんのファンなんです。ローエングリンの『愛する白鳥よ』のアリア、本当に素晴らしかった」

舞台化粧を落とし、目立たない濃紺のスーツを身に着けた白鳥氏は、存外に普通の顔立ちをした、どこにでもいるような男性だった。
要するに舞台映えするタイプなのだろう。
オペラ歌手らしく太っていないのが、かえって控えめな人物に映る。
彼は、あがり症と聞いていなくても、『大人しそうな人だ』という第一印象を、対峙する人間の胸に抱かせるような様子をした人物だった。

彼が只者でないのは、だが、明白な事実だった。
最初に瞬にその姿を認められた時には、初訪問の家に戸惑っているようだった彼の瞳が、今は異様に鋭く、ぎらついていると言ってもいいような凄みをたたえている。
彼が只者なら、氷河も“普通の人”と言っていいだろう。
彼のその視線の鋭さを、どこかで見たような瞳の輝きだと瞬が思った時、
「瞬……」
瞬の名を口にしたのは氷河ではなく、瞬とは今日初めて出会った白鳥氏の方だったのである。

「え?」
初対面で呼び捨てという、白鳥氏の大胆に、瞬はもちろん驚いた。
その大胆を失礼と認識することはできたのだが、瞬の名を呼ぶ彼の声は背筋がぞくりとするほど深く響くヘルデン・テノールで、瞬は彼に不快な目を向ける気には到底なれなかったのである。
そんな自分の態度が氷河の機嫌を損ねることを恐れ、瞬は急いで彼の腕に両手を絡めた。
そして、氷河に尋ねる。
「氷河。白鳥さんは、今日はどうしてこちらに?」

氷河からの返事はなかなか返ってこなかった。
氷河の作る不自然に長い沈黙を訝り、瞬が上目使いに彼の顔を覗き込む。
そこで瞬が見ることになったのは、世にも奇妙な代物だった。
頬を真っ赤に染めて、怯え戸惑ったような目をした氷河。
しかも、彼は、ふるふると小刻みに その全身を震わせているのだ。

「氷河、どうかしたの?」
まさか氷雪の聖闘士である氷河が、冬の嵐の日の外出で風邪を拾ってきたわけでもあるまいにと訝りながら、瞬が彼の頬に右手を伸ばす。
「うわ〜っ !! 」
途端に氷河は素頓狂な雄叫びをあげて、瞬の手から逃れるように あたふたと不自然な動きで後ずさった。
そして、次の瞬間には彼は、自分の右脚に左脚を絡ませて、不恰好に床に尻餅をついてしまっていたのである。

あっけにとられてしまった瞬に、瞬とはこれが初対面の白鳥氏が、妙に余裕のある態度と 背筋がぞくぞくするようなテノールで告げた。
「瞬、それは俺じゃない」
「え……え……?」
「おまえの氷河は俺だ。そして、そこで腰を抜かしているのは、俺の姿をした あがり症のオペラ歌手」

「……」
瞬が声を失ってしまったのは言うまでもない。






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