瞬の意思によって氷河が運ばれた場所――ジュデッカ――では、氷河が予想していた通り、瞬の兄がハーデスの玉座の足許に倒れ伏していた。
「倒せなかったのか、やはり」
全人類の命を救うために倒さなければならない ただ一人の弟。
一輝は、だが、やはり、彼の唯一人の弟の身体を壊してしまうことができなかったらしい。
その心がわかるだけに、氷河は一輝が哀れでならなかったのである。

一輝は、自分が生き延びようなどという考えはごうも抱いていなかったに違いない。
自らが死ぬ覚悟はできていたのに、それでも一輝は、彼の弟を殺すことはできなかったのだ。
身体の痛みよりも心の痛みに打ちのめされてハーデスの足許に倒れている兄の姿を、瞬は、氷河の目を使って無言で見詰めていた。

誰よりも敬愛する兄、幼い頃から“瞬”を守るためだけに生きていたような兄――。
彼のために、瞬は、この馬鹿げた悲劇の幕を自らの手で下ろさなければならなかった。
胸が苦しくて、弟への愛情のために傷付き倒れている兄に告げる言葉も思いつかない。
言葉の代わりに、瞬は自分の為すべきことを為して、彼の愛に報いるしかなかった。
借り物の顔をあげ、瞬は まっすぐに冥界の王の上に視線を据えた。

「ハーデス。その身体を使って誰かを傷付けることは、もう許さな――」
『許さない』と告げるつもりだった瞬の声は、しかし、ふいに遮られてしまったのである。
他の誰でもない、その言葉を告げようとした者――つまりは、氷河によって。
瞬に その身体の支配権を譲ったはずの氷河が突然、憤怒の感情にかられて、瞬との約束をあっさり反故にしてしまったのである。
玉座に座る冥界の王に、彼は大声でがなりたて始めた。

「きっさまーっ! 貴様、それを誰の身体だと思っている! 瞬の身体だぞ、俺の瞬の身体だ!」
『氷河、僕に貸してくれるって……』
「やかましいっ! おまえの身体をあんなふうに使われてたまるかっ」
氷河を制止しようとした瞬までをも(声に出して)怒鳴りつけ、氷河は、瞬の顔をした瞬でないものを憎々しげに睨みつけた。
「大胆に開いた その脚を閉じろ! 俺が毎晩、瞬の脚を開かせるのにどれだけ苦労しているのか、貴様、知っているのかっ! それは俺への挑戦か!」
その座り方を見ただけで、氷河は、今 彼の目の前にいる者が瞬ではないとはっきり認識できてしまったのである。

たとえその身体の中に瞬の魂が座していないとしても、その事実がわかっていても、瞬の姿を持つ者を倒すことに、自分は苦しまないわけにはいかないだろう――と、氷河は、つい数刻前までは思っていた。
しかし、今 彼の目の前で、瞬らしからぬ姿勢で玉座に腰掛けているモノは確かに瞬ではなかった。
氷河には、その事実が、僅かの迷いもなく確信できてしまったのである。
それ・・が上辺だけは瞬の姿をなぞったものであることが、一層 氷河の怒りを大きくした。

瞬はといえば、氷河の身体の中で、痛みを伴わない頭痛を覚えていたのである。
と同時に、氷河がこれほど明確に、ハーデスに支配された“瞬”と本来の“瞬”を別のものと割り切ってくれるのなら、彼はためらうことなく“瞬”の器を倒してくれるのではないか――という期待をも、瞬は抱いた。

(あの馬鹿……)
そんな瞬とは対照的に、最愛の弟の命を奪ってしまうことができずにハーデスに倒された一輝は、氷河にこの場を任せることはできないと感じ、再度覚悟を決めることになったのである。
満身創痍の身体を鼓舞して、彼は再びその場に立ち上がろうとした。
立ち上がれるだけの力は既に彼には残っていなかったのだが、それでも。

「どいていろ。貴様みたいな甘ちゃんに、あれを倒せるはずがない」
「甘ちゃんはどっちだ。あんなのは瞬じゃない。瞬の姿をかたどっただけの出来の悪いデク人形だ。おまえは惰弱にも、そのデク人形を倒せなかったんだろう」
氷河が、偉そうに、瞬の兄を惰弱と断じる。
それが事実であるだけに、一輝は何も言い返すことができなかった。

しかし、それを氷河に言われることには腹が立つ。
一輝は意地でも再びその場に立ち上がり、氷河の前で彼の言う『出来の悪いデク人形』を打ち倒してみせなければと思ったのだが、ハーデスの攻撃をまともに受けた彼にできたのは、せいぜい伏臥する形で倒れていた身体を仰臥の形に変えることくらいのものだった。
立ち上がることのできない自分の身体に、一輝は、だが、心のどこかで安堵していた。






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