「おまえが呼んでくれなかったら、来れなかった」
「ここはどこ?」
「どこと言って――おまえの住んでいる世界だ。おまえの世界」
「僕の世界?」
「そうだったろう?」
「うん……」
言われてみれば、そんな気がする。
確かに、こんな世界に生きることを瞬は望んでいた。
明るく穏やかで美しく、“敵”のいない世界――。

「僕、ここで何をすればいいの」
氷河にそう尋ねてから、瞬は、それが間違った訊き方だということに気付いたのである。
ここが自分の住んでいた世界なら、自分はここで既に何かをしていたはずなのだ。
そう考えて、瞬は質問の内容を変えた。
「僕は ここで何をしていたの」

明るく穏やかで美しく、“敵”のいない世界――は、どこか茫漠としており、瞬に不安を運んでくる。
その世界を見渡すことが怖くて、瞬はその場に座り込んだ。
視界に彼方が映らなくなったことで、少しだけ瞬の気持ちは落ち着いた。
そんな瞬の前に片膝をついて、氷河が瞬の頬を両手で包み込む。
「ここでは おまえは、おまえ自身のために生きて、おまえ自身を愛していればいいんだ。そして、できれば、俺も愛してくれると嬉しい」
「それだけ?」
「他にしたいことがあれば、何をしてもいい。ここはおまえの世界だから。何もかも、おまえの望む通りになることになっている」
「他にしたいこと……」

自分には何か望みがあるのだろうかと、瞬は自分自身の心の中を探ってみた。
しかし、そこには、今 瞬の身体が存在する花園と あまり変わらない光景があるばかりだった。
明るく穏やかで美しく――穏やかで美しいだけの茫漠とした世界。
欠けているものもなければ、余計なものもない。
輪郭のはっきりしない不安のようなものはあったが、それは世界全体――瞬の心全体――を覆い尽くし世界と同化していて、瞬には 取り除く術もないように思われた。

「思いつかない」
瞬は、そう答えるしかなかったのである。
そう答えた時、それまで ただ漠然としているばかりだった瞬の心に、小さな葛藤のようなものが生まれた。
それは、こんな詰まらない答えしか作れない自分を、氷河は退屈な人間だと思うのではないか――という懸念だった。

しかし、氷河は瞬の返答に対して 何の反応も示さなかった。
満足したように見えない代わりに、蔑む様子も見せない。
瞬は、自分の詰まらなさを氷河に忘れてもらうために、彼に別のことを尋ねた。
「ここは広いの?」
「おまえの望む分だけ」
「果てはあるの」
「おまえが必要だと思うなら」
「僕と氷河の他に誰かいるの」
「おまえがいてほしいのなら」
「僕がいてほしいなら……?」

では、氷河と花しかない この世界は、自分が望みさえすれば、多くの人間が行き交う賑やかな場所になることも可能なのだろうか。
そうなったら、この世界を包む漠然とした不安は消えるのかもしれない。活気に満ちた楽しく愉快な世界が実現するのかもしれない――。
瞬は、一瞬、期待に満ちてそんな世界の光景を脳裏に思い浮かべたのだが、その光景はすぐに砂漠の彼方に浮かぶ蜃気楼のように消えていった。

氷河ひとりだけでも、“他人”は自分の心に小さな嵐を生み出すことができる。
その表情や胸中を思うだけで、自分の心は揺れ動く。
その心の中を全く読み取れない“他人”が この世界にあふれることになったなら、自分の心は始終“他人”の気持ちを推し量り、慌て、戸惑い、思い悩むことになるだろう。
そうなれば、この世界の穏やかさや静けさは失われてしまうに違いない。
瞬は、この世界に“他人”は氷河ひとりだけでいいと思った。






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