「ハーデス様。いえ、今はまだシュン様とお呼びすべきでしょうか」
「え?」
ここはヒョウガのための私的な城館が抱えている奥の庭である。
ヒョウガの侍従や女官、あとはせいぜい造園家くらいしか足を踏み入れることのできないはずの場所だった。
警備の兵も、不測の事態が起きない限り、無粋な姿を見せるのを遠慮している場所である。
そこに、いかにも夜陰に紛れて忍び込んだといった様子の黒い影が三つあった。

「何者っ」
シュンは剣を持っていなかった。
「衛兵っ! 不審な者たちが入り込んで――」
シュンは急いで城館や庭の出入り口に控えているはずの警備の兵を呼ぼうとした。
不審な影の中の一つが素早くシュンの背後に回り込むなり その肩を掴み、同時にもう一方の手でシュンの口をふさいでしまう。

「お静かに」
シュンの身体の自由を奪った侵入者は、シュンが意外に感じるほど落ち着いた声でシュンを制してきた。
慌てた様子が全くないところを見ると、その侵入をシュンに気付かれることは、彼等にとって想定外の出来事ではなかったらしい。
彼等は、シュンに会うために この庭に忍び込んできたのだ。

声とその手の感触から、自分を取り押さえている不審者が背の高い若い青年だということが、シュンにはわかった。
ヒョウガの明るい金髪とは対照的に、闇の中に溶け込む色の髪をしている。
その男が、更に低く潜めた声で、シュンに囁いてくる。
「あなたは、あなたの忠実な臣下を敵国に売り渡そうというのですか。私は、メスラムの国の民です」

それでシュンは事情を察してくれるものと彼は思っていたらしい。
シュンに沈黙を強いた男は、ゆっくりとシュンの身体にかけていた手を離し、他の二人と共にシュンの前に片膝をついた。
「な……何のこと」
思いがけない出来事にシュンは戸惑ったのだが、シュンの前に控えた三人もまた、それはシュンと同じだったらしい。
僅かに落胆の色がにじんだ声で、彼等がシュンに尋ねてくる。
「では、あなたが何も憶えていらっしゃらない――というのは事実ですか」
「祖国のことも、ご自分のお生まれのことも?」

シュンが何の反応も示さずにいると――事実は、『示せなかった』のであるが――シュンを取り押さえた男とは別の男が、シュンを仰ぎ見るようにして、シュンが求めもしなかった“説明”を、シュンの前に差し出してきた。
「あなたはメスラムの国の王子です。先代の王が非業の死を遂げた今となっては実質的には国王、唯一我等が帝王の高貴な血を引かれるお方。いずれはハーデスの名と共に、その高潔な志と理想を引き継がれ、やがて この世界に君臨するお方なのです」
彼等はいったい何を言っているのかと、当然のごとくにシュンは思った。
否、言っていることはわかるのである。
信じる気にはなれなかったが、言葉の意味だけはわかった。
ただ、メスラムの王に関する評価が、あまりにシュンの聞いていた内容と異なるので、シュンは彼等の言葉に軽微とは言い難い違和感を覚えていた。

「この国の者たちは、あなたの父君とあなたの故国を奪った、いわば仇。あなたはこのような場所にいらっしゃるべきではありません」
いずれにしても、シュンは、彼等の言葉を信じる気にはなれず、信じたいとも思わなかった。
ヒョウガの将来を憂える気持ちを除けば、シュンは今 幸せな人間だった。
現在が幸福な人間が、今と今に至るまでの時間以外の何を信じたがるだろう。






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