その夜遅くなってから、シュンはヒョウガの私室を訪ねた。
幸福な王女の肖像画はどこかに運ばれたのか、既に彼の部屋には置かれていなかった。
ヒョウガは、ビロード張りの肘掛け椅子に 彼らしくなく少し砕けた姿勢で腰をおろし、何か考え込んでいる様子だったが、シュンの姿を見るとすぐに、いつもの穏やかな微笑を彼の幼馴染みに向けてきた。
「やっと出てきてくれたか。詰まらない心配をしていたんだろう? 何があっても おまえは俺の側におくから、心配するな。おまえは俺が守る」

もう10年も昔、二人がまだほんの幼い子供だった頃、シュンは同じ言葉をヒョウガの口から聞いたことがあった。
あの時シュンは、ただただ『殺される』のが恐ろしく、自分に向けられる悪意に怯え、震えることしかできない無力な子供だった。
それがどんなものなのかも わからずに、ただ“死”が恐かったのである。
だが、あれから10年。
シュンはもう“死”の意味を知っていた。
そして、もう“死”は恐くなかった。

『シュンは俺が必ず守るから』
ヒョウガは、あの誓いをこれまでずっと守り続けてくれた。
あの言葉に報いるのは今なのだと、シュンは決意していた。

「ヒョウガ。気持ちの悪いことを訊いていい?」
椅子に腰掛けているヒョウガの前にまわり、ともすれば涙が零れそうになる瞳を懸命になだめて、シュンはヒョウガに尋ねた。
「なんだ」
「ヒョウガは僕を犯せる?」
本当は、もっと耳に快い美しい言葉で訊きたかったのだが、それも浅ましいことのような気がして、シュンは、あえてその言葉を選び用いた。

さぞや驚き慌てるに違いないと思っていたヒョウガから、暗に相違して取り乱した気配のない簡潔な答えが返ってくる。
「できない」
「うん……」
「シュン、どうしたんだ」
「ごめんなさい。気にしないで。アスガルドのお姫様にヒョウガを取られてしまうような気がして、僕、ちょっと混乱してるみたい」

シュンはただ、最期にヒョウガの顔を見たいと思っただけだった。
最期に甘い夢を見られたら――という気持ちもあったが、それは叶わなくてもよかった。
『おまえは俺が守る』
その言葉が聞けただけで、シュンは既に十分に満ち足りていた。
「おやすみなさいを言いにきただけだったんだ。ごめんね。――おやすみなさい」
名残りを惜しむようにヒョウガの青い瞳を見詰め、シュンは、今彼が入ってきたばかりの扉を開け、ヒョウガの前から立ち去ろうとした。
ヒョウガに背を向け、数歩歩かないうちに、ヒョウガに背中から抱きしめられる。
シュンの耳許に、ヒョウガの金色の髪と囁きが降ってきた。

「犯すなんて馬鹿げたことはできないが、愛することならできる」
「……!」
シュンは、息が止まるかと思ったのである。
ヒョウガがどういうつもりでその言葉を用いたのかを確かめるのが恐くて、シュンは後ろを振り返ることができなかった。

身体を強張らせているシュンのうなじを、ヒョウガの苦笑混じりの声がなぞっていく。
「困った奴だな。どうして俺がこれまで優しい王子様を演じ続けてきたと思う。本性を出して、おまえに怯えられるのを避けるためだったのに」
「あ……」
「そうか。おまえをその気にさせるには、焼きもちを焼かせるのが有効だったんだな。優しく物分りのいいオウジサマの振りをしているだけでは駄目だったわけだ」
「ぼ……僕は、焼きもちなんか……」

そんな軽々しい感情に突き動かされて、シュンはここにやってきたのではなかった。
だが、ヒョウガの言うことが完全に誤っていると言いきることもできない。
異国からやってきた見知らぬ王女とヒョウガが幸福そうに見詰め合っている様を見たくない――そんな場面に立ち合うことには耐えられない――という気持ちは、確かにシュンの中にあった。
みじめなほど安っぽい自分の感情に気付いて、シュンは瞼を伏せた。
が、ヒョウガには、シュンのその安っぽい感情がさほど不愉快ではなかったらしい。
彼は、むしろ嬉しそうだった。

「アスガルドの姫には感謝しよう。おまえをその気にさせてくれた」
振り向こうとせず、顔をあげようとしないシュンを振り向かせ、その顎を捉えて上向かせ、彼はその唇をシュンの唇を重ねてきた。
自らの内にある卑小な思いに萎縮しかけていたシュンは、咄嗟に自分が何をされているのかが――望んでいたことのはずなのに――理解できなかったのである。
ヒョウガの腕がシュンの背にまわり、触れ合っているだけだった口付けが、そうではないものに変わっていく。

ヒョウガの唇と舌に なだめるように説得され続けているうちに、シュンは陶然となっていった。
そして、半ば意識を手放しかけながら、シュンはやっと自分たちがしている行為の意味をぼんやりと意識することができるようになったのである。
やがて、名残り惜しげにヒョウガの唇が離れ、ほとんど夢見心地でいたシュンは、朝のまどろみから目覚める時の思い切れなさに似た思いに囚われながら、ゆっくりと目を開けた。






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