「子供の頃と印象が全く変わっていなくて、とても嬉しいと言っていたわ」
瞬に与えられた希望を胸に、瞬の婚約者は城戸邸を辞していった。
見送りに出ていた沙織が、今後のことを話し合うべく、彼女の聖闘士たちがたむろしているラウンジにやってきた時、知恵と戦いの女神を出迎えたものは、婚約者の登場ですっかりその立場を失ってしまった瞬の同性の恋人の怒声だった。

「瞬っ! なぜ、本当のことを言わなかったんだっ! 俺というものがありながら!」
この日本国で、同性の恋人というものに いったいどういう権利が認められているのかは、実は氷河自身も知らなかった。
しかし、彼は彼の恋人の不実を責めないわけにはいかなかったのである。
というより、彼には他にできることが何ひとつなかったのだ。

「言えないよっ! 僕は男で、男の氷河と付き合ってますなんて!」
「なぜ言えないんだ! ただの事実じゃないか」
「だって、あの人を傷付けることになるかもしれないし、事情を知らない人にそんなこと言って、僕だけならともかく、氷河までが変な目で見られることになったら、僕……」
「今更 変な目も何も、俺たちは、職業がアテナの聖闘士だということだけで既に 堅気の人間から見たら十分変な存在だっ!」
「おい、どさくさに紛れて、俺たちまで“変”の仲間入りさせんなよ」
ただのアテナの聖闘士とホモのアテナの聖闘士では、“変”のレベルが格段に違う――と、天馬座の聖闘士は思っていた。

それにしても、極めて普通でないこの二人の、極めて普通でない痴話喧嘩の内容――の“変さ”は尋常の“変”ではない。
それに比して、瞬の婚約者は、決められたレールの上を一度たりとも脱線・遅延することなく走り続けてきた優良車両そのものに見えた。――少なくとも、星矢の目にはそう映った。
「なんか、すげー真っ当に生きてきた感じのあんちゃんだったよな」
「親族の決めた婚約に反感も抱かず従おうと考えるのは、今時、一概に普通だとも言えないだろう。しかも、いくら瞬の帰国を知ったからといって、こんなに急に――。確か、彼の祖父――井深電器産業の創業者は既に他界しているはずだ」

たとえ祖父の決めた婚約を反故にするつもりはないのだとしても、その祖父はとうに鬼籍に入っており、彼は彼の婚約者に何年も会っていなかったのである。
まずは婚約者の人となりの確認から入るのが、それこそ“普通”なのではないか――というのが、紫龍の考えだった。
沙織が、紫龍の疑念に首を横に振って答える。

「彼、瞬の歳を聞いて知っていたらしいの。瞬は16歳になったでしょ」
「なるほど」
「? 16だと何なんだよ」
「つまり、日本国の民法第四編第二章によると、瞬は、女子なら結婚できる年齢に達している――ということだ」
「……本気なんだ、あのあんちゃん」
まるで冗談としか思えていなかったこの事態が、法律などという実際的なものを持ち出されたことで、急に現実味を帯びてくる。
楽天と鷹揚を売りにしている星矢も、これにはさすがに表情を強張らせることになった。

「彼、今春大学を卒業したの。もちろん、いずれはお父様の会社に入るわけなんだけど、その前に米国のハーバードビジネススクールに留学することになっているのよ。だから、その際に妻として瞬を一緒に米国に連れていくことを考えているか、あるいは、帰国までの間に色々と準備をしていてほしいと思っているのかもしれないわね。帰国したらお父様の会社に入社して、1、2年は肩書きなしの平社員として働いて、そのあとは常務あたりから社長への道を進むことになると思うわ」

「絵に描いたようなエリート人生だな」
「親の七光りだろう」
紫龍の感嘆に、氷河が苛立ったように噛みつく。
何もかもが自分とは正反対の、実直・堅実・計画的な瞬の婚約者は、氷河にとっては勘に障るだけの存在だったらしい。

「彼は障害者福祉活動に熱心で、そちら関係の会合等で会うこともあったし、私は、仕事を離れたところでも全く知らない仲でもないの。人柄も申し分ないし、大学での成績も優秀。なにしろ祖父の決めた婚約者がいるというので女遊びも全くせずにきたわけで、そちらの方でも信用がおけるわね。瞬が女の子だったなら、こちらからお願いして、さっさと話をまとめるところよ。願ってもない良縁ですもの」
「僕はアテナの聖闘士なんですよっ」
実現不可能なことだからと 笑って受け流すには、沙織の口調は真剣味を帯びすぎている。
本気で瞬が少女だったならと考えている様子の沙織に、さすがに瞬は黙っていられなかった。

「それが問題なのよね。亭主持ちの聖闘士なんて前例はないし、家庭と仕事の両立というのは聖闘士には難しいと思うし……」
今更ながらの瞬の主張に、沙織が心底残念そうに吐息する。
「今だって似たようなもんじゃん。職場結婚だけど」
と茶々を入れてから、星矢は、瞬の亭主が先程から彼らしくなく ほとんど発言していないことに、改めて気付いた。
怪訝に思いつつ、瞬の横でその瞳だけに怒りをたぎらせている氷河の上に視線を転じる。

「氷河、何とか言えよ」
「瞬が本当のことを言えないというのなら、俺が洗いざらい ぶちまけてやる!」
氷河には、グラード財団と井深電器の業務提携の話も、自分が世間から“変”な目を向けられることになる可能性も、全く彼の人生の支障になり得ないことであるらしい。
氷河の口から究極の解決方法を知らされて、星矢と紫龍は同時に両の肩をすくめることになったのである。
いざとなったら その手があるのだと思うと、他人事ながら、彼等の気は楽になった。
穏便に事態の収拾を図りたいらしい瞬だけが、開き直ったような氷河の態度に物言いをつける。

「氷河っ」
しかし、氷河は、とにかくこの世に“瞬の婚約者”などというものが存在する事態に我慢がならないらしい。
責めるように同性の恋人の名を口にした瞬に、氷河は、逆に突っかかっていった。
「おまえは、この俺より、あんな軟弱な男の方がいいというのかっ!」
「軟弱ではなさそうだったが。祖父が城戸翁の剣道の道場仲間だったというし、孫もやってるんじゃないのか」
真っ当すぎるほどに真っ当な瞬の婚約者の欠点をあげつらいたいらしい氷河の詰責をいなしたのは、瞬ではなく紫龍だった。
星矢が、大いに同感したように仲間の見解に頷く。

「あのあんちゃん、8年間も瞬のことだけ思ってたんだろ? 健気じゃん」
「単に女にもてなかっただけだ!」
「あれがもてないはずないだろう。井深電器の御曹司で、頭もよくて、身体も鍛えてあって、女癖も悪くない。顔の造作もなかなかのものだ。出来すぎなくらいだ」
「なら、不能なんだろう!」
「だとしたら、瞬が男だってことは、ますます障害にならないじゃん」

究極の解決があることを知ったあとだけに、星矢たちは気楽に氷河を追い詰める。
一応 その場には処女神アテナがいて、話がしもがかった方向に向かうことに眉をひそめていたのだが、嫉妬に囚われた氷河は、そんなところまで気がまわらない。
彼は、その声のボリュームを更に上げ、仲間たちを怒鳴りつけた。

「貴様等は、瞬を欲求不満の身体を持て余した有閑マダムにするつもりかっ!」
「へえ。瞬、そんなに好きなんだ、アレ」
「氷河と同じだけ してるわけだからな」
「そりゃ すげーや」
聞くに耐えない下世話な話題にいたたまれなくなったのは、沙織よりも瞬の方だった。
「もう! 僕は真面目に悩んでるんだよっ!」

ふざけているとしか思えない仲間たちのやりとりを、怒りよりも情けなさに支配されたような目をした瞬が中断させる。
しかし、シュンの仲間たちは、半分泣きべそをかいているような瞬になじられても、全く深刻さを取り戻してはくれなかったのである。
「でも、どうしたって、あのあんちゃんはおまえと結婚なんかできねーんだし、深刻に悩むだけ馬鹿らしいじゃん」
「おまえがどんなに穏便な解決を望んだとしても、どうせ氷河が滅茶苦茶にするんだしな」
「……」

それはそうなのである。
天地がひっくり返っても、太陽が西から昇り東に沈んでも、井深の御曹司の望みが叶うことはない。
瞬とて、それはわかっていた。
わかっていたのだが――。






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