とんでもない実験のモルモットにされた二人のうち、先に目覚めたのは氷河の方だったらしい。 その時にはもう、氷河と瞬の部屋に取りつけられた観察用カメラは取り除かれていたのだが、星矢と紫龍は、朝まだきの頃に自室から廊下に飛び出た氷河が、その勢いのまま瞬の部屋に飛び込んでいく様を、その目でじかに確かめることができたのだった。 自分が体験していた出来事が“ただの夢”だったとわかった時、氷河はどんな思いを その胸に抱いたのだろう。 過去への後悔か、現在への安堵か、あるいは未来への希望か――。 そして彼は、瞬の部屋で生きている瞬の姿を見い出した時、悪夢が悪夢でしかなかったことを どれほど喜び、随喜の涙を流したことだろう。 それは、瞬も氷河と同じであったに違いない。 二人の喜びのほどは、直接その場に居合わせることのできなかった星矢と紫龍にも 容易に想像することができた。 なにしろ、氷河が瞬の部屋に入ったのは、まだ太陽が世界に姿を現していない早朝だったというのに、二人は翌日の朝になるまで――つまりは丸一日――、二人きりで閉じこもった部屋から一歩も外に出てこなかったのだ。 二人が部屋の中で何をしているのかは察しがついたが、星矢たちはあえて二人を呼びに行こうとは思わなかった。――その勇気もなかった。 沙織は沙織で、これで城戸翁丹精の庭の景観が守られると満悦至極の 星矢と紫龍は、やっと戻ってきた城戸邸の平和の時に 些細な刺激も加えたくなかったのである。 だが。 平和というものは長くは続かないものである。 暇な歴史学者が調べたところによると、人類が暦を発明して以来、数千年に及ぶ長い歴史の中で、この地上に戦争や内戦が起きていない日は僅か数日しかなかったらしい。 それほどまでに、人の世はトラブルが絶えないようにできているのだ。 アテナの聖闘士たちの住む城戸邸も、そんな世界の一部だった。 氷河と瞬――白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士。 この二人は、喧嘩をしていれば、その喧嘩が周囲に迷惑をかけるが、仲がよくても傍迷惑な存在であることに違いはなかったのである。 互いに生きていることを存分に確かめ合う二人の歓喜の小宇宙は、女神アテナの想像力も至らぬ場所に、思わぬ作用を及ぼすことになったのである。 城戸邸の庭の一画には、これも城戸翁の道楽の遺産である、洋蘭を栽培するための温室があった。 そして、そこには慎重な温度設定によって開花の日が計算され、一鉢数十万円もする胡蝶蘭の鉢がずらりと並んでいた。 その日、氷河と瞬の歓喜の小宇宙の影響を受けて、それらの花が予定より数ヶ月も早く一斉に花を咲かせてしまったのである。 決して売るために栽培していたわけではなかったのだが、その損害は数千万円に及んだ。 それだけならまだしも、2ヵ月後の品評会に城戸光政の名で出品する予定だった鉢の花までが開花してしまい、そのショックで、城戸光政存命の頃から この家に雇われていた洋蘭園芸家が泡を吹いて倒れてしまったのである。 「お祖父様の蘭がっ!」 華麗なる惨状を呈している温室に急行した沙織は、もちろん大いなる衝撃を受けることになった。 そこに、菊の温室の世話を任されていた菊職人までが泣きながら飛び込んでくる。 「お嬢様、菊が……旦那様の菊が予定より半年も早く開いてしまいました……!」 「お祖父様の菊がっ!」 あまりのことに卒倒しかけた沙織は、持てる力のすべてを振り絞って、それでも何とか その場で踏みこたえてみせた。 その想定外の事態に、沙織が嘆き、取り乱し、その後、怒りの小宇宙を大燃焼させることになったのは、至極当然のことだったろう。 しかし、女神アテナの怒髪天を衝く強大な小宇宙ですら、互いが生きていることに歓喜し感動する氷河と瞬の心を抑えつけることはできなかったのである。 世界の広さと、その世界を作り養ってきた長い時間。 その中で二人が巡り会うことのできた幸運、生きて共に在ることの価値、触れ合い抱きしめ合うことのできる奇跡。 自分たちがどれほど幸福な恋人たちなのかということを 嫌というほど認識できてしまった氷河と瞬の愛の小宇宙は、春夏秋冬の景観を計算し尽くされた城戸邸の庭を、季節感の全くない狂い咲きの庭にしてしまったのだった。 この世に愛のあることを知る人間の歓喜の力は、他のすべての力を凌駕して強大である。 それは、怒りや憎しみの力ごときに抑えつけられることなく、あふれ出し、湧きあがり、世界を覆い尽くしてしまう力なのだった。 Fin.
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