モンテ・コルヴィノの町の中央広場の脇にあるタルソスの塔は、第一回十字軍が最初の戦果をあげたキリキアの都市タルソスにちなんで、その名を冠することになった塔である。
その塔に足を踏み入れるのは、ヒョウガは これが初めてだった。

神への反逆の罪――とはいえ、地上の神への反逆の罪だが――を犯した者が閉じ込められる塔。
封建制度の枠組みに組み込まれていないが故に 各国の王に勝るとも劣らない強大な力を有し、横暴を極め尽くしている教皇庁。
そこに群がる聖職者たちの腐敗振りを見兼ねて 教皇庁に反旗を翻し、神の地上代行者に逆らった者たちの多くは、『聖戦』と呼ばれた過去数年間の戦いでほぼ成敗され尽くした。
エデッサの捕虜の祖国は、地上の神に反抗する最後の国だった。
タルソスの塔に囚われている神への反逆者は、現在は問題の少年ただ一人である。
そして、彼は最後の一人になるだろうと言われていた。

神への反逆者――は、相当 悲惨な場所に閉じ込められているのだろうとヒョウガは思っていたのだが、ヒョウガが連れて行かれたエデッサの捕虜のための牢獄は、まさに名ばかりの牢獄だった。
広い室内は清潔で、採光も考慮され明るく、人間が生活していくために必要と思われる家具はほぼ揃っている。
別室には風呂もあるらしい。
そして、問題の捕虜は、華美ではないが清潔な服を身に着け、髪も見苦しくなく整えられていた。
塔の部屋から窓の外を眺めている捕虜の後ろ姿を最初に見た時、ヒョウガは彼を、この塔を見学に来た貴族の師弟かと思ったほどだった。

「シュン殿」
モンテ・コルヴィノ枢機卿が、罪人の一族である捕虜を呼び捨てにしない。
その事実に驚きを覚えたヒョウガは、だが、名を呼ばれて振り返った少年の姿を見て、その驚きをすら忘れるほどに驚いた。

エデッサの捕虜は、少年とも少女ともつかず、性別が感じられない人間だった。
何に似ているかと問われれば、天使に似ているとしか言いようがない。
無論、ヒョウガはそんなものを見たことはなかった。
エデッサの捕虜は、ヒョウガがかつて見たことのないものだった。

なめらかな頬、薔薇色の唇、何よりその瞳が尋常でなく澄み切っている。
今生まれたばかりの赤ん坊でも、ここまで透き通った眼差しを持ってはいまいと確信できるほどに。
しかも、赤ん坊と違って、エデッサの捕虜の瞳は知性の光を宿している。
美しかった。
そして、確かに、疑いようもなく清らかだった。

冷酷とまではいわないが冷徹なほどに合理的ではある枢機卿が、彼を薄汚れた場所に放り込めないのは、彼の元の身分を考慮したからではなく、この童貞の力を恐れているからなのだと、ヒョウガは瞬時に得心したのである。
翼を持っていないだけの天使。
神の怒りを畏れる者なら、無礼はできないだろう。
ヒョウガは、我知らず長嘆息した。

「これは……。確かに、この王子様に比べたら、この国の聖職者や教皇庁のジジイ共は、悪魔並みに悪党面だ」
言いたいことを言い募るヒョウガに、枢機卿は顔色も変えない。
「とにかく一度女を知らせてみてくれ」
枢機卿は、当の罪人の前で、彼に聞こえるように言う。

16にもなった――まして、世が世なら一国の王――を、裁判を開かずに処刑はできない。
一度女を知らせてしまえば、事態はすべて枢機卿たちの目論見通りに進むのだ。
裁判で「童貞か」と訊かれた時に、彼が「はい」と答えたら、証人を連れてきて それは嘘だと証言させ、「そうではない」と答えたら、そのまま神への反逆者として処刑してしまえばいいのだから。
それで、形式だけは神と法にのっとって、モンテ・コルヴィノ枢機卿と教皇庁は正義を行なったことになる。
実に楽しくない話だった。

「自慰はしたことがあるか?」
「?」
ヒョウガが尋ねると、エデッサの捕虜は、自分が何を訊かれたのかが わかっていない顔をした。
そして、直截的すぎるヒョウガの質問に驚いたのは、問われた本人ではなくモンテ・コルヴィノ枢機卿の方だった。
この“清らかな”捕虜に よくそんなことを訊けるものだと、その目は言っていた。

「俺が教えてやる」
ヒョウガの言葉を聞いて、ヒョウガをここに連れてきた者が更に嫌そうな顔をする。
枢機卿は、この清らかな者が汚れることを心底から望んでいるわけではなく、また、この清らかな者を汚すことは罪だという自覚はあるようだった。
だが、エデッサの捕虜は誰かに汚さなれなければならない。
その罪を決して自分では犯したくないから、枢機卿は、放蕩者のヒョウガを この塔に招き入れたのだろう。

「では頼むぞ。おまえと おまえが連れてくる者は、この塔には自由に出入りできるように手配しておく。もしどうしても必要なのであれば、シュン殿を塔の外に連れ出しても構わない。ただし、その時には事前に私の許可をとること」
随分とゆるい・・・枢機卿の言葉を、ヒョウガは怪訝に思ったのだが、それはつまり、働きもせずにモンテ・コルヴィノの一族に養われているようなヒョウガに思い切ったことは――たとえば、捕虜を逃がすようなことは――できないと踏んでいるからなのだろう。

実際、その通りだった。
ヒョウガの亡き両親が残した遺産は大伯父である彼の管理下にあり、ヒョウガはモンテ・コルヴィノ一門の金庫から年金を受け取ることで、彼自身の館の維持と生活ができていたのだ。
とうに成人しているヒョウガが本来与えられた権利を行使しようとせず、枢機卿のそういうやり方に甘んじているのは、両親の遺産を自由にすることができるようになったら、1年を待たずしてそれらすべてを使い果たしてしまいかねない自分を知っているからだった。
ヒョウガは、枢機卿としての大伯父のやり方は好まなかったが、彼個人を嫌ってはいなかった。

だからといって、ヒョウガは、諾々と枢機卿の意図通りに動くつもりもなかったのである。
エデッサの捕虜に自慰を教える気など、ヒョウガには最初からなかった。
彼はただ、エデッサの捕虜と余人を交えず、二人きりで言葉を交わしてみたいと思っただけだった。






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