ドイツ・チューリンゲン州南西部。 俺はハーデス城(付近の住人は別の名で呼んでいたが)まで車で1時間以上離れたところにあるマイニンゲンの町にホテルの部屋をとった。 城の麓の村にはホテルがなかったんだ。 2年前、冥界からこの世界に戻ってきた時、聖域に戻るまでの4、5日の時間を、俺はこの地に滞在した。 だが、あの時、俺の目には何も映っていなかったから、俺はこの町やハーデス城の付近の様子が全く記憶に残っていない。 人の目は、見たいものだけが見えるようにできているものだ。 そして、あの時、俺が見たいものは この地上に存在していなかったんだから、俺が何も憶えていないことは致し方のないことだと思う。 そんなわけで、俺は、ほとんど初めて訪れる旅行者の気分で、その町に足を踏み入れたんだ。 そこは、ドイツ中部、かつて東西ドイツの国境にもなっていた山岳地帯にある ごく普通の町だった。 中世から近代にかけての古い石造りの建物と現代建築のビルが、当たりまえのように隣り合って、舗装された道の脇に建っている。 人通りも車通りも都会に比べればささやかなもので、信号を探さなくても大通りを横切ることができる。 近くに大きな聖エリザベートゆかりの史跡や有名なチューリンゲン磁器の窯があちこちにあるとかで それなりに遠方からの観光客もあるらしい。 寂れているわけではないが、のどかな風情をたたえた町だった。 その町に到着し、まずホテルに向かった俺を最初に迎えたもの。 それは、『シュン』という音――人の声――だった。 俺が呼ばれたわけでもないのに、俺は弾かれるように その音のした方を振り返り――そこで、『シュン』を見付けた。 石造りを装ってはいるが、真新しい中規模ホテルの正面扉の脇。 ホテルの制服を身に着けた若い男に呼びとめられた『シュン』は、その男に何やら頷く素振りを見せ、ホテルの建物の中に姿を消した。 俺は自分の手荷物を放り出して――大した荷物じゃなかったが――彼の後を追った。 急ぎたいのに、脚が驚愕のために震え、思うように歩けない。 自分がどうやってホテルの中に入ったのか、俺の記憶は完全に消えている。 ともかく、ホテルのエントランスホールに入り、カウンターの横に再び彼の姿を見い出した時初めて、俺は、それが目を離した隙に消えてしまう幻ではないことを知った。 安堵と恐怖が、そこから先に俺を進ませてくれない。 カウンターでホテルの責任者らしい男と話し込んでいる彼の横顔は、俺の瞬そのものだった。 髪の色、目の色、背格好、白人とは違う肌の白さ、姿勢がよく、仕草に無駄な動きがない。 穏やかな線で描かれた形の良い眉、細い肩、優しさと意思の強さが同居している唇。 俺の知っている瞬が、俺の知っている姿そのもので、そこに存在していた。 変わりすぎるほどに変わった俺と、何も変わっていない瞬。 その事実に思い至った時、それまで自分の耳で聞き取れるほど強く波打っていた俺の心臓は、“生きている瞬”に出会った時以上の衝撃を受けて、一度停止したんだ。 彼が瞬であるはずがないんだ。 もし彼が俺の瞬なのであれば、その瞬は2年分成長しているはずだった。 彼が2年前の瞬そのものの姿をしているということが、逆に、彼が俺の瞬ではないことを示す証になってしまっていた。――皮肉なことに。 「どうかなさいましたか」 先程ドアの前で『シュン』を呼び止めた男が、俺に声をかけてくる。 彼はこのホテルのポーターだったらしく、俺が放り出した荷物をその手に下げ持っていた。 まるで何かに取り憑かれたように荷物を放り出してホテルに飛び込んだ男を不審に思っているのに、無理に身を案じている表情を作ろうとしているような、そんな顔を彼は俺に向けていた。 「あの子は……」 俺が視線で『シュン』を示すと、彼は急に10年来の謎が解けたような顔になり、その目許に微苦笑を浮かべた。 「ああ。みんなが目をとめるんですよ。可愛い子ですからね」 「そうじゃない」 彼が『可愛い』ことなどどうでもいい。 そんなことではなく――彼が俺の瞬に似ていることが――彼が2年前の瞬そのものの姿をしているということが問題なんだ。 なぜそんなものがここにいるのか、俺はその謎解きをしてほしかった。 が、彼は俺の意図を汲んではくれなかった。 謎を解く代わりに大きく頷き、俺にとっては的外れな、しかし彼にとっては論理的であるらしい答えを返してくる。 「どなたもそう言いますよ。顔の造作も見事だが、雰囲気が違うって」 「……」 俺は自分のドイツ語に自信をなくし、口をつぐんだ。 俺の沈黙を受けて、彼は問われてもいないことを得意げに語り続ける。 「このホテルで通訳として雇われている子なんです。ドイツ語の他に、英語、フランス語、ギリシャ語、ロシア語ができる上、日本語まで喋れるんで重宝がられている。今日は日本からの予約客があるとかで、その客人が来るまで待機していてくれと支配人に頼まれて、仕事場に逆戻りですよ。日本人は、なにしろ無駄に気前がいいから、シュンも喜んでるとは思いますが」 その日本からの客が俺だとは、彼は思ってもいないらしい。 外見は典型的ヨーロッパ系コーカソイド、その上、言葉にも東洋系の訛りのない俺を日本人と認めろという方が無理な話なんだろうが。 ともかく、『シュン』というのは、俺の聞き間違いや空耳ではなかったらしい。 彼の名前は『シュン』というのだ。 名前も、俺の瞬と同じ音でできている。 それだけじゃない。 瞬そっくりのシュンが駆使できる言語は、ほぼ俺の瞬のレパートリーと同じだった。 瞬は、日常会話程度なら、ゲルマン語とロマンス語はほとんど喋ることができた。 ロシア語は俺が教え、日本語は瞬の母国語。 他にアムハラ語等のセム語系のものを幾つか話せたが、アフリカ系の言葉はこの地ではあまり役に立たないから、話せることを周囲の人間に知らせていない可能性はある。 もちろん、ゲルマン諸語とロマンス諸語を複数操ることのできる人間は欧州には多い。 チューリンゲンは大戦直後にはロシアの占領下に置かれたから、ロシア語を話せる者もいないことはないだろう。 しかし、そこに日本語が加わると、話せる人間の数は激減する。 彼は、その数少ない人間の一人だということだ。――瞬と同じに。 「日本語はどこで」 「子供の頃に何年間か日本にいたそうなんですよ。両親の仕事の都合とかで」 「両親……」 瞬には縁のなかったその言葉を聞かされた時、俺は再び大きな落胆に襲われた。 そして、彼が俺の瞬ではないことを承知しつつ、瞬との類似点を必死になって探していた自分自身を自覚する。 彼は瞬ではないのだ。 その姿形は瞬そのもの――2年前に俺が最後に見た通りの瞬そのものだというのに――だからこそ。 ここは死者の住む町なんだろうか。 そんな町に、俺は迷い込んでしまったんだろうか。 だとしたら、俺は二度とこの町から出たくない。 二度と瞬のいない世界には戻りたくない――。 瞬ではない瞬の姿を見詰めながら、俺は、自分の中に生まれる馬鹿げた考えを、どうしても消し去ってしまうことができなかった。 |