その夜、シュンの家を訪れたヒョウガを出迎えたものは、シュンの二つの瞳からあふれ出る涙だった。
アテナ陣営最強とも噂されている聖闘士が、ヒョウガの姿を認めた途端に、ぽろぽろと涙をこぼし始めたのだ。
シュンの涙の訳は、すぐにわかった。

「ヒョウガ、僕はヒョウガが好きだよ。でも、僕はヒョウガと二人だけじゃ幸福になれない。ヒョウガと僕だけが幸せじゃ、僕はかえって不幸になるんだ」
それがシュンの出した答えで、その答えがヒョウガを傷付けることを恐れ、シュンの涙は止まらないのだ。

「……だから、おまえは戦い続けるのか? おまえが傷付いても? おまえは、俺よりも戦いの方が――アテナの方が大事なのか?」
ヒョウガはシュンを責めるためにそんなことを言ったわけではなかった。
ヒョウガはただ、シュンを悲しませるすべてのことに腹が立っていたのである。
戦いにも、アテナにも、聖域にも、そして、自分自身にも――。

「僕は、ヒョウガとアテナを比べているんじゃないの。僕が幸福になれないことで、ヒョウガを苦しめることになるのがつらいの」
「……わかっている。すまん。言いすぎた」
シュンには、恋のために捨ててしまえないものが多すぎるのだろう。
それは、ヒョウガに会う以前のシュンが幸福な人間だったということで、喜ぶべきことである。
恋のためにすべてを捨てろとシュンに求める自分の方が、冷酷で我儘なのだ。
それくらいのことはヒョウガにもわかっていた。
シュンが、その冷酷で我儘な男のために涙を流していることも。

その身体を抱きしめても、シュンの涙は止まらない。
それが有効な慰め方なのかどうか、自信は全くなかったのだが、ヒョウガはシュンを彼の寝台に運んだ。

「聖域が邪悪の巣窟だったらよかったのに。そうしたら、僕は僕の心でヒョウガを正義に目覚めさせて、そしてみんなと力を合わせて、邪悪を打ち滅ぼして――」
シュンの腕が、ヒョウガの背に絡みついてくる。
他にすがるものはないと言わんばかりに必死なシュンの細い腕は、ヒョウガの憤りを僅かに和らげることになった。

「そして、教皇が改心して、アテナに膝を屈し、めでたしめでたしか」
冗談としてでも考えられない大団円である。
聖域の教皇は、聖域の誰よりも平和を望み、寛大で情にあつく、聖域に住む者たちの身を気遣い、誰に対しても公平な態度で臨む、組織の長として これ以上を望むべくもないほどに優れた人物だった。
その教皇が認めないアテナだからこそ、聖域の者たちはアテナをアテナとして受け入れずにいると言っても過言ではない。
シュンを倒そうとしていた白銀聖闘士とて、もちろん己れの功名心もあっただろうが、アテナの村が消え去ることが教皇の望みだと信じればこその、あの暴挙だったのだ。

「なのに、聖域には聖域の正義があって、その正義のために戦ってる人がいて、その人たちはいい人たちで……」
それは、そのままアテナの村の者たちにも当てはまる言葉なのだろう。
聖域よりも人数の少ないアテナの村では、人と人の結びつきが聖域よりも緊密で、シュンはどうしてもそれを切り離すことができないのだ。

「俺たちだけ逃げることもできないか……。八方塞がりだな」
「でも、僕は幸せになりたい……幸せになりたい」
「シュン……」
シュンの小さな叫びは悲痛でさえあった。
人の望むことで、それ以上に強い願いがあるだろうか。
だが、考えてみれば、それは実に不思議な願いである。
幸せでなくても人は生きていけるのに。
だというのに、人はなぜ その願いを願わずにはいられないのだろう――。

例の白銀聖闘士は、シュンとヒョウガが知り合いだとは思わなかったらしく、あの戦いの場にヒョウガが居合わせたことも忘れてしまっているようだった。
だが、二人がこれまでと同じ日々を過ごしていたら、二人の関係はいつかは聖域にも知れることになるだろう。

既に、ヒョウガの師の水瓶座アクエリアスのカミュは、彼の弟子には聖域の外に好きな娘ができたのだと思い込んでいる節があった。
彼の弟子が通っている先がアンドロメダの聖闘士の家と知ったら、彼は彼の弟子の聖域に対する裏切りに衝撃を受け、そのまま氷柱になってしまいかねない。
そんな師のために、ヒョウガは今は黙秘権を行使していた。
その師にも、いつかはすべてを知られてしまう日がくるに違いないのだ。

その時、対立し合う二つの陣営にいる二人が“幸せ”に至ることのできる道はあるのだろうか――。
ヒョウガは、その道を少しでも早く見付け出さなければならなかった。
二人が破滅という最後に至らないために。

「今夜も来る」
いつ眠ったのか、そもそも自分たちは眠りについたのか――そんなこともわからなくなるほど抱きしめ合った翌朝、そう言って、ヒョウガはシュンの寝台から起き上がった。
シュンが寝台に横になったまま――身を起こさずに――、身仕舞いを整えるヒョウガを見詰めている。
昨夜のシュンは、これまでにないほどに情熱的で積極的だった。
今になってシュンの身体には そのつけがまわってきたらしい。
それでもまだ抱きしめ足りないと、ヒョウガは思っていたのだが。

「僕、多分もう、ヒョウガがいないと生きていけないと思う。だから、僕がヒョウガを手に入れるために何をしても、ヒョウガ、呆れないでね」
「俺を聖域から略奪でもする気か? そんなことをしなくても、俺はおまえのものだぞ」
笑ってシュンにそう答えた時、ヒョウガは、シュンが“ヒョウガ”を手に入れるために何をしようとしているのかに気付いてもいなかった。






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