「瞬?」
そこに現われた人間の正体を確かめるようなイントネーションで、氷河は瞬の名を口にしたが、ここにやってくる人間が誰なのかを事前に知っていたかのように、彼の表情には驚きの色がなかった。
ゆっくりと立ち上がり、瞬の方へと歩み寄ってくる。

「多分 来ると思っていた……。死んでしまえば楽になれるかもしれないと卑怯なことを考えていた俺が、それでも死に切れずにいた時に、俺をこの世界に呼び戻してくれたのはおまえなのに、おまえ自身はいつも迷っているんだな」
決して、瞬がこの場に現れたことを責めるようにではなく、どちらかといえば優しいと表現していいような眼差しを、氷河は瞬に向けてきた。

彼が何を言ってるのか――は、まもなく瞬にもわかった。
天秤宮で、アンドロメダ座の聖闘士が白鳥座の聖闘士を生き返らせた時のことを、彼は言っているのだ。
あの時 瞬は、氷河の意思を無視して、無理矢理彼を生き返らせた。
瞬自身が、彼を失いたくなかったから――。

氷河はあの時のことを、もしかしたらずっと恨んでいたのだろうかと、瞬は今になって とてつもない不安に囚われてしまったのである。
十二宮の戦いのあと、彼は瞬に「ありがとう」と言ってくれた。
だから、瞬は、自分が生き返らされたことを氷河は喜んでいる――少なくとも、彼を生き返らせた人間を恨んではいない――と思っていた。

だが、それもひとりよがりな思い込みにすぎなかったのかもしれない。
事実を確かめることが恐ろしくて――瞬は氷河の視線を避けるために、不思議な光を放っている塔に歩み寄った。
その、磨きこまれた水晶のようになめらかな壁に触れる。
光を発する塔には石の冷たさはなく、全体にギリシャの初夏の外気と同じだけの温もりを帯びていた。

「この塔に――何かを願ったの……?」
恐る恐る――氷河の顔は見ずに尋ねてみる。
瞬が触れているものに氷河が触れ、彼は瞬の顔を覗き込むようにして、低く告げた。
「特定の死んだ者だけを生き返らせるのは不公平だから、いっそ俺があっちに行くというのはどうかと」
「氷河! いやだ、そんなこと考えないで!」

自分が聞きたくないことを告げられようとしていることに気付いた瞬は、鋭く彼の言葉を遮った。
では彼は、やはり生き返りたくはなかったのだ。
それでも彼に生きていてほしいと望むことは我儘なのかと、そう思った瞬の瞳の奥が熱くなる。
深く項垂れた瞬の髪に氷河の手が触れ、彼の指はまもなく、まるで瞬をなだめるように その髪に絡みつき始めた。

「生き返る前の俺なら、そう考えていたかもしれないと思っていただけだ。俺はもうそんなことは考えない。今の俺は、この世に――おまえのいる世界に未練がありすぎるから」
「え……」
「おまえが馬鹿な願いを願うためにここに来たら、それを止めようと思って待ち伏せしていたんだが――。今、ここにおまえが来て、一緒に星空を見られたらいいなと思い始めていたところだった」

氷河はどうやら、死を願ってここにやってきたのではなかったらしい。
それでも自分の中の不安を打ち消しきれずに、瞬は氷河に尋ねた。
「氷河……あの、僕に腹を立ててるんじゃないの?」
「何を? おまえがここに来たことにか?」
「そ……そうじゃなくて、僕が氷河を勝手に生き返らせちゃったことに」
「なに?」

それまで すべてを見透かしているようだった氷河の瞳が、初めて困惑の色を浮かべる。
それから彼は短く吐息して、首を横に振った。
「ありがとうと、俺はおまえに言ったはずだ。俺は、おまえのおかげで、俺の命が何のためにあるのかに気付くことができた。心から感謝している」
「あ……」

氷河は、嘘を言っているようには見えなかった。
瞬は――瞬こそが、その事実に感謝したのである。
他人の手で生き永らえされてしまった命と、彼が今も生きていることを、氷河が苦しんでいない事実に。
瞬は、氷河に気付かれぬよう、ほっと安堵の息を洩らした。






【next】