「そんなことが可能かどうか、常識で考えてちょうだい!」 ピーマン騒動が終わって数日が経った ある日の夕暮れ時。 城戸邸のラウンジには、またしても沙織の怒声が響き渡っていた。 「俺はただ、聖闘士にも休暇をくれと言っているだけだ」 沙織の大声の原因は、今回もまた氷河であるらしい。 「あげないとは言っていないわ。でも、半年も中国に行っていたいというのは、アテナの聖闘士として職務怠慢・職場放棄だと思うのだけど」 「俺は行ったきりでいるとは言っていない。嶺南に 「あなたの場合は、動機が不純なの! 瞬、何とか言ってやって!」 「なんとか……って……」 氷河が突然そんなことを言い出した訳はおろか、氷河の動機がどう不純なのかさえ、瞬は知らなかった。 何とかしたくても、どうすればいいのかがわからない。 瞬にできることは ただ、そして、まず、 「氷河、どうして急にそんなこと言い出したの」 と、氷河の休暇申請の理由を尋ねることだけだった。 瞬に問われたというのに、珍しく氷河が素直に答えない。 代わりに、紫龍が、その理由を瞬に教えてくれた。 「レイシというのは、あれだ。唐代の中国皇帝玄宗の皇妃だった楊貴妃が好きだった果物。彼女を喜ばせるために、玄宗皇帝が嶺南から長安まで早馬で運ばせたというので有名な果物だな。氷河はその玄宗皇帝の真似をすることを思いついたんだろう。今はレイシは、早馬で運ばせるまでもなく、そこいらの果物屋で売っているから、氷河は馬で運ばせる代わりに自分でレイシを育て捧げることを考えたんだな、おそらく」 「……」 紫龍の説明に 瞬が絶句し、 「世の中、ほんとに平和だな!」 と、星矢が、半ば呆れ、半ば怒っているような声をあげる。 なんとか気を取り直した瞬は、まだ氷河の野望の意図を完全には理解し切れていない顔をして、その首をかしげた。 「でも、そんなにレイシが好きな人って、誰?」 「なに……?」 瞬は意図していなかったが、それは氷河にとっては実に鋭い指摘だった。 意識せずに重要な疑問を発した瞬の顔を無言で見詰め、氷河が何やら考え込む素振りを見せる。 短い沈思黙考のあと、彼は沙織に向き直り、 「わかった。半年間の休暇申請は取り下げる」 と、彼の上司に告げた。 氷河は、この段になって初めて、彼がレイシを捧げようとしていた人は、特にレイシが好物というわけではなかったことを思い出したのである。 玄宗皇帝の真似をするという彼の野望は、最初から意味のないものだったのだ。 望んでいた決着に辿り着けたというのに、氷河の翻意の言葉を聞いた沙織が洩らした溜め息は安堵の息ではなく、常識のない我儘な男の対応に疲れきった嘆息だった。 疲労感に満ち満ちた長い溜め息を吐き出してから、彼女が言う。 「ほんと、氷河のことは瞬に頼むのがいちばんね。瞬がいてくれて助かるわ」 沙織が瞬への謝意を伝える言葉を言い終えた、まさにその瞬間だった。 瞬の瞳から、ふいに ぽろりと涙の雫がこぼれ落ちたのは。 「えっ?」 思ってもいなかった瞬の反応に、沙織が虚を衝かれたような顔になる。 瞬の突然の落涙に驚いたのは、星矢も紫龍も、そして氷河も同じだった。 ここは、どう考えても、涙を流すような場面ではない。 「あ、ごめんなさい。目にごみが……」 瞬は慌てて顔を伏せ、自分の目から ふいにこぼれ落ちてきたものを右手の指の背で拭ったのだが、瞬の 取ってつけたような言い訳を信じる者は、そこには一人もいなかった。 瞬の涙腺が他の人間のそれに比べて繊細に過ぎるのは 紛れもない事実だが、これまで その涙は嬉しい時と悲しい時にしか流されないものだったのだ。 心配顔で仲間の顔を覗き込んできた星矢の視線から逃れるように、瞬が一歩だけ その場から後ずさる。 そうしてから、瞬は、場を取り繕うように、 「ご……ごめんなさい、か……顔、洗ってくる……!」 と言い、逃げるようにしてラウンジを出ていってしまった。 その場にいた者たちは、いったい瞬の身の上に何が起こったのかを理解できず、瞬の姿を呑み込んでしまったラウンジのドアを呆然と見詰めることになってしまったのである。 瞬の唐突な落涙の理由は、誰にもわからなかった。 だが、それは氷河に関わることのせいに違いないと、星矢と紫龍と沙織は ほぼ同時に直感した。 星矢が、顔をしかめて、白鳥座の聖闘士を 「おまえ、もう少しオトナになって、瞬に気苦労かけないようにしろよ。瞬はおまえのお 「瞬が急に泣き出したのは、俺のせいだと言うのかっ!」 身に覚えのなかった氷河は、もちろん すぐに星矢の決めつけに反論した。 瞬が突然泣き出したのは絶対に自分のせいではないと、彼は確信していたが、瞬が自分以外の誰かのせいで泣いているのだとしたら、氷河には それもあまり愉快な話ではなかった。 きつい睥睨で星矢を黙らせてから、氷河は再度、瞬の出て行ったラウンジのドアを困惑しながら見詰めることになってしまったのである。 |