(恋……?)
自分が考えていることに気付いたヒョウガは、現に“そんなこと”を考えていたにも関わらず、“そんなこと”はありえない――と、自らの考えを否定した。
そんなことはありえない――のだ。
だいいち、今はアテナの聖闘士が“そんなこと”に うつつを抜かしていられるような時機ではない。
海神ポセイドンが、平和だったギリシャの島々を蹂躙し、その侵略の魔の手をアテネの町にまで伸ばそうとしている。
平時でも、恋などというものは、アテナの聖闘士には不似合いな優雅な戯れである。
まして今は非常時なのだ。

それでも、その優雅な戯れが似合う この花の精に、何ごとかを伝えたいという衝動にかられる。
何かに突き動かされるように、ヒョウガが乾いた唇を開きかけた時。
ふいにどこからか遠雷のような音が微かに響いてきた。
花の精が耳聡く その音に気付き、びくりと身体を震わせる。
その様を見て、ヒョウガはなぜかひどく慌てることになったのである。
伝えたいことは他にあったような気がしたのだが、そんなことは今はどうでもよかった。

「遠雷だ……! 海の方で――沖で雨でも降っているんだろう……!」
そうではない可能性もあったのだが――むしろ、それは戦いに関わる音である可能性の方が大きいような気もしたのだが、あえてヒョウガはそう言った。
花の精が、戦いの兆しに怯えて、この場から消え去ってしまうことを、ヒョウガは恐れたのである。
それは、アテナの聖闘士かポセイドン配下の者が地を裂いた音かもしれなかった。
あるいは本当に沖の遠雷なのかもしれなかった。
だが、いずれにしてもそれは、この花園から遠く離れた場所での出来事なのだ。

幸い、彼はヒョウガの言葉を受け入れてくれたらしく、ヒョウガの前から消え去ることはしなかった。
代わりに、小さな声で呟く。
「本当に花の精ならよかったのに」
「俺が? それとも君がか」
「二人とも」

彼は、ヒョウガの言葉を完全に信じたわけではなかったらしい。
彼は、花園を囲む木々の向こうにある空に、僅かにやり切れなさがにじんでいる眼差しを投げた。
「そうしたら、僕たちは戦いなんて気にせずにいられる」
「だが、花は敵が来ても逃げることができずに、踏みにじられて散るしかない」
「その方がいいと思わない? 自分が人を傷付けるより、その方がずっといい」
「戦いが嫌いなのか」
「好きな人なんかいないでしょう」
「……そうだな」

ヒョウガは、首肯せずにはいられなかった。
彼の意見に賛同したわけではない。
だが、『戦いを好きな者はいないにしても、戦うことで生きている人間はいる』――そんなことを、戦いを厭う花の精に告げたところで何がどうなるものでもない。
平穏を愛する花の精に そんな事実を知らせても――少なくとも楽しいことは起こらないのだ。

「……僕、今日初めて会った人と なに話してるんだろ」
自分は この少年の嫌いな戦いを生業なりわいとするアテナの聖闘士なのだ――そんな、自覚したくもないことを自覚したヒョウガの前で、花の精が我にかえったように苦笑する。
「ここの花は平和を望むすべての人のものだよ。僕だけのものじゃないから」
そう言って、ふいに彼は駆け出した。
つい先刻には彼にここから立ち去ってほしくないと強く望んでいたヒョウガに 彼を引き止めることができなかったのは、ヒョウガが自分の立場を――アテナの聖闘士という自らの立場を――思い出してしまったからだった。


「戦いが好きな人なんかいない、か」
花の精が消えたせいなのか、花園の花たちの生気が減じたような気がする。
そんな花園で、ヒョウガは低く呟いた。
聖闘士は戦いが好きなのだろうかと、ヒョウガは我が身を顧みて思った。
好きなわけではない。
むしろ、誰よりも平和を望んでいる。
だが、それは、今は戦うことでしか得られないものなのだ。
そして、聖闘士は、戦うことが生きている証となる存在である。
おそらく、それは花の精に最も嫌われる種類の人間――であるに違いない。

ひどく苦い思いを感じて、ヒョウガは結局 花を摘むのをやめた。
花は、アテナの聖闘士の手に我が身を渡したくないだろう。
戦いを生きる証とする者にできることは、平和を望む花たちが戦いを知らぬまま その生を全うできるように努めることだけなのだ。






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