「皆は ああ言っているが、俺たちがポポカテペトルの山に向かったのは、ただの偶然だ。あの子供に会ったのも、あの子供から泉の位置が変わったという話を聞くことができたのも、ただの偶然――」
ヒョウガは、以前のように 務めの合間を縫ってシュンの許に忍んでくる必要がなくなっていた。
ヒョウガの主君であるカラクムルの王は腰を低くして、神の代理人であるシュンに、神への貢ぎ物として彼の部下を献じてくれたのである。

「そして、新しい泉の場所を捜し当てたのはおまえの知恵だ。もしかしたら神などというものは――」
おかげでヒョウガは、昼夜を分かたずシュンの従者としてシュンの側にいることができるようになった。
そのことに関しては、ヒョウガも素直に喜び、ありがたく王の配慮を受け入れた。
しかし、シュンが水を探し当てた経緯を知っているだけに、ヒョウガは、他のマヤの民のように、シュンを神の意を受けた者と思い込むことができなかったのである。

なにより、シュンが神の代理人などという大層なものであったとしたら、畏れ多くてその身体を我が身の下に組み敷けない。
神の代理人の従者となったヒョウガは、そのせいでマヤのすべての民の中で最も神を信じられない男に変貌していた。
そんなヒョウガの胸の下で、シュンが微笑する。
「神は、人間を幸福にするために存在するものなんだと思うよ。僕たちの祖先は、彼等の子孫のために――人間のために――神というものを作ったんだ」

人が人のために作られたものに、いつしか逆に支配されるという現象はしばしば起こり得ることである。
事実、言葉も暦も最初は人の生活を便利にするために作られたものだったというのに、今では人はそれらのものに生活を支配されているではないか。
言葉という伝達手段を得たために、人間の直感という能力は弱まり、暦が作られたために、人は自由で無限の時間というものを失った。

それらのものは人間社会が組織化され発展することに大いに貢献しただろうが、人の心や意思よりも 言葉や暦の方が大きな力を持つ事態は、非常に危険な事態でもある。
だが、それが本来 何のために作られたものなのかということを 人が忘れさえしなければ、それらのものは人間にとって確かに有益な道具なのだ。
――神という存在も。

「でも、だから、僕は、生け贄の風習も人間の知恵でなくすことができると思う。ううん、必ず なくさなくては」
「シュン――」
ヒョウガの下にあるシュンの身体は、以前と変わらず細く頼りない。
だが、どちらかといえば、大人しく控えめな人間だと思っていたシュンの瞳は、今は決然とした輝きをたたえている。
ヒョウガは、シュンの外見と心の乖離に、意外の感を覚えた。

心優しく美しく寛大で健気――ヒョウガがシュンに惹かれたのは、シュンのそういう性質にだったというのに、シュンの本質は実はヒョウガの認識とは全く違うものだったのではないかと、ヒョウガは疑い始めていた。
シュンの意思は はるか遠い高みにあり、実はシュンは恋人などいなくても自由に強く生きていくことのできる人間なのではないか――と。

不安の色を帯びたヒョウガの瞳を、シュンが不思議そうな目をして見あげ、見詰める。
ヒョウガが不安を覚える理由が、シュンには全くわからなかった。
人の意思と知恵で、マヤから生け贄の風習をなくす――。
シュンのその決意は、すべてヒョウガのためだったのだ。

「だって」
ヒョウガの左の瞼を通る傷に、細い指でそっと触れ、シュンが切なげに微笑む。
「こんなに美しい人は、ヒョウガの他にはいらないから」
「シュン」

シュンの悲しげな色をたたえた瞳を見詰め、ヒョウガはすぐに自分の中の馬鹿げた考えを振り払った。
シュンが優しいのは、もともと彼が強い人間だったからなのだ。
強さを伴わない優しさなど 何の力も持たないし、そもそもそんなものは人の世に存在し得ない。
最初から――ヒョウガが彼に心惹かれた時から――シュンは強く心優しい人間で、ヒョウガが愛したのはそういうシュンだった。

そのシュンが、どういうわけか疑い深く心弱い男を愛してくれているのだ。
自身の幸運に こそばゆいものを感じながら、神の加護によってで失わずに済んだ強く心優しい恋人を、ヒョウガはもう一度強く抱きしめた。






Fin.






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