- II -






眠れぬ夜を過ごした翌日、ヒョウガは、
「ヒョウガ、起きろーっ!」
というセイヤの叫び声で目を覚ました。
声は、城の庭から聞こえてくる。
リビュアの領主の弟を侮辱した昨日の今日。
まさかリビュアの領主の意を受けた者たちがこの館を襲撃してきたのではないかと危惧し、慌てて寝台から抜け出したヒョウガは、館の二階にある自室の窓から、彼の館の庭と庭から門に続く道に視線を投じた。

門前に、馬が一騎。
その尾花栗毛の馬に乗っている人間の姿を見て、ヒョウガはあやうく腰を抜かしそうになってしまったのである。
ヒョウガの館の門が開かれるのを騎乗で待っていたのは、昨日ヒョウガが求婚し、その返事をもらう前に失恋することになった、リビュアの領主の弟 その人だったのだ。
急いで身仕舞いを整え、転がるようにして階段を駆け下りたヒョウガは、館の外に一歩出るなり、すぐに門を開けるよう、大声で見張りの兵に命じた。

「シュンといいます。先日のお礼をしたくて」
ヒョウガの館の庭に突然現われた少女――少年――は、流れるような仕草で馬の手綱を厩番に預け、微笑しながらヒョウガの前に立った。
「シュン――」
意気込んで求婚し、その求婚が見事な空振りに終わってから やっと知ることのできたその名を、ヒョウガは、自分の胸に刻み込むように復唱した。
自分は、名前も知らない相手に求婚するなどという非常識なことをしてのけたのだと、今頃になって気付く。
昨日の自分は何をそんなに焦っていたのか――理由はわかっていたのだが、わかっているだけに、ヒョウガは顔から火が出る思いだったのである。

「昨日、兄を訪ねていらしたと聞きました。僕を救ってくださったことを、兄に知らせてくださればよかったのに。そうしたら兄もその場に僕を呼んでくれたと思うんですが――本当に失礼しました」
少年として見ると、シュンの美しさや清楚さは、ますます尋常のものではないと、ヒョウガには感じられた。

思いがけない訪問者に庭先でいつまでもみとれている場合ではないとヒョウガが気付いたのは、ごく短い時間のあとだったのか、家人が領主の様子を訝るほど長い時間を経てからのことだったのか――。
ともかく、はっと我にかえったヒョウガは、自分の焦りと戸惑いを気取られないように細心の注意を払いながら、シュンを館の内に招き入れた。
シュンを客間に通した時、その部屋の扉を開けた瞬間、ヒョウガは、こんなことなら もっと邸内の装飾に金をかけておけばよかったと、今更ながらな後悔を覚えることになったのである。
ヒョウガは実用性のない華美な装飾を好まなかったのだが、洗練された都の住居の家具や調度に慣れたシュンの目には、この館のありさまは野卑なものに映るかもしれない。
ヒョウガはそれを懸念した。

もっとも、ヒョウガの懸念は杞憂にすぎなかったらしく、シュンは、ヒョウガに示された極めて実用的な椅子に腰をおろし、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「追い返されるのかと思っていました」
「わざわざ訪ねてきてくれた者をどうして。俺の方こそ――」
シュンに対して、とんでもない侮辱を働いてしまったのだ。
シュンに会うことは二度と叶わないのではないかとすら思っていた。
たった今も、夢の中にいるような気がする。

その 夢のような現実の中で――シュンがためらいがちにヒョウガに尋ねてきた。
「兄は言い掛かりをつけられたと立腹していますが、もしかして、その……スキュティア卿は僕を女性だと思ってました?」
「いや、あの……」
この場合、即座の否定以外の返答は肯定を意味する。
「やっぱり」
シュンはそう呟いて、両の肩を落とした。

ヒョウガは、穴があったらそこに飛び込み、100年くらい その中にもぐったままでいたいような気分になったのである。
幸い シュンは、すぐに気を取り直したように、
「慣れていますから、お気になさらないでください。兄は――なんとか なだめてみます」
と言ってくれたのだが。

いかにも短気で気性が激しそうだったリビュア卿に比べ、その弟はいたって穏やかな性質の持ち主であるらしい。
ほっと安堵の息を洩らしたヒョウガは、だが、またすぐに妙に落ち着かない気分になった。
彼は突然、この優しい生き物を今すぐ強く抱きしめたいという衝動にかられてしまったのである。
恋に落ちてしまったあとで同性と知らされても、心がすぐに納得するわけもなく、シュンが美しいことにも変わりはなかったのだ。






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