Memento vivere ―生を想え―






「最近、氷河の様子がおかしいんだ」
瞬は、その一言を言い出すタイミングを、随分 長い間 見計らっていたようだった。

秋が深まる城戸邸ラウンジ。
現在その部屋にいるのは、瞬の他に、天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士のみ。
瞬は、要するに、氷河が席を外すのを待っていたのだろう。
が、特段の用がなくても瞬の側にいたがり、瞬の姿を見ていたがる氷河が、
「夕食まで図書室にいる」
と言ってラウンジを出ていったのは既に 20分も前。
瞬は、話を聞かれたくない人物が席を外したあとも しばらく、その話を切り出すことをためらっていたことになる。

それほどの逡巡を経て、ついに口を開いた瞬に対する星矢の答えは、
「ふーん」
という、あまりにも短く、あまりにも素っ気ないものだった。
話の続けようがなくなった瞬が、椅子に掛けたまま、もじもじして黙り込む。

やりとりになっていない二人のやりとりを 中国茶カタログを眺めつつ漏れ聞いていた紫龍は、そんな瞬の様子を見兼ねて、星矢に水を向けてやったのである。
「星矢。せめて、どんなふうにおかしいのかぐらい聞き返してやったらどうなんだ。話が続かなくて、瞬が困っているじゃないか」

星矢は、紫龍と違って本を読んでいたわけでもなく、ただ ぼうっと今日の夕食のメニューに思いを馳せていただけだった。
要するに彼は、どう見ても暇を持て余していたのである。
瞬の相手をしてやってもバチは当たらない状態だったと言っていいだろう。
にも関わらず、星矢は、紫龍のその言葉を意外に思ったらしい。
彼は、真面目な顔をして、紫龍に首をかしげてみせた。

「え。だって、氷河がおかしいのなんて、いつものことじゃん。今更 氷河の奇行ぶりを聞かされたって、どうせ驚くほどのことも――」
そこまで言いかけてから、星矢が一度言葉を途切らせる。
しばし何やら考え込む素振りを見せてから、彼は言葉の先を継いだ。
「でも、そうだな。たとえば、夕べ氷河がやらなかった! とかいうなら、驚いてやってもいいぜ」
「それは確かに異常事態だな。で?」

紫龍の『で?』は、もちろん瞬に向けられた疑問文だった。
が、瞬としても、それは実に答えにくい質問だったのである。
本来それは第三者に他言するような事柄ではないし、瞬は羞恥心というものを持ち合わせていた。
瞬は答えるに答えられず、困ったように顔を俯かせた――おそらくは、星矢と紫龍がその答えの入手を諦めてくれることを期待して。
ところが、星矢と紫龍は、瞬の答えを聞くまでは絶対に他の話題は受け付けないと言わんばかりの強硬姿勢で、瞬の返答を待ち続け――結局瞬は、自分の話したいことを話すために、二人に折れるしかなかったのである。

「夕べは……それは……いつもよりすごかったけど……」
「普通じゃん」
期待はずれの瞬の答えに、星矢は露骨に詰まらなそうな顔を作った。
氷河がいつも通りに彼の仕事に励んでいたというのなら、それは事件でも何でもない。
しかし、紫龍は そこに事件性を見い出したらしい。
彼は、考え深げな様子で、星矢に 彼の見解の誤りを指摘した。

「いや、氷河が善良な一般市民よりすごかったというのなら、それは確かに今更驚くに値しないことだが、『いつもよりすごい』というのはつまり、『氷河に比べてすごい』ということだぞ。これは尋常ならざる事態と言っていいかもしれない」
紫龍は自分の引っ掛かりを言葉にしただけで、決して瞬に助け舟を出したつもりはなかったのだが、瞬はそれでも紫龍のその発言に大いなる力を得たらしい。
椅子に腰掛けたまま身を乗り出して、瞬は大きく何度も頷いた。

「そ……そうでしょ! ここ数日、突然なんだ。これまでは、僕が『もう無理』って言ったら、氷河は しぶしぶでもやめてくれてたの。なのに最近は、もうそれこそ、僕が失神してても、すぐにまた一人で勝手に始めちゃって……。何ていうか、もう明日にはできなくなるとでも思ってるみたいな感じなんだよ!」
瞬は相当“様子のおかしい氷河”を心配しているらしい。
自分が今 気負い込んで語っている話の内容が、つい先程まで羞恥と常識に阻まれて語るのを渋っていた二人の性生活の暴露だということにも、瞬は気付いていないようだった。

平素の瞬なら決して他人に語らない秘事。
だが、瞬は、自分が口をすべらせてしまっていることすら認識していない。
この現状は、確かに何かが“おかしい”。
星矢にも紫龍にも、それは感じ取ることができたのである。
しかし、それは『瞬がおかしい』のであって、『氷河がおかしい』のではない。
瞬が心配している氷河の“おかしさ”は、星矢たちにしてみれば、いかにも氷河らしいことだった。

「それはさ、いよいよ やりたい盛りが絶頂期に差しかかってきたってだけのことなんじゃねーの? いくら氷河でも、あと10年もすりゃ、『善良な一般市民より かなりすごい』程度におさまるさ」
「その見積もりは甘くないか? 氷河はあれでも聖闘士だからな。瞬に空しい期待を持たせないためにも、ここは20年と言っておくのが妥当だろう」
「瞬の苦労は あと20年も続くのかー。大変だなー」
冗談めかした口調だったが、星矢は半分は本気で瞬に同情しているようだった。

そんなことで同情されたくなどなかった瞬が、さすがに眉を吊りあげる。
「もう、真面目に聞いてよ! 氷河がおかしいのはそれだけじゃないんだから!」
「だから、それは聞き飽きたって」
瞬が口をすべらせなくても見聞きできる氷河の奇行――性生活以外の奇行――は、星矢はこれまでに うんざりするほど目撃し、また、げんなりするほど人づてに聞いてもいた。
またそんな話を聞かされるのかと思っただけで胸焼けがするほど、彼は氷河の奇行に食傷していたのである。






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