『人間は理性的動物である』と言ったのはソクラテス。
『人間は社会的動物である』と言ったのはアリストテレス。
そして、『人間は死を自覚する存在である』と言ったのはハイデッガーである。
他にも、『言葉を用いる動物』、『道具を用いる動物』、『時間の観念を持つ動物』、『祈る動物』、『遊ぶ動物』、『自殺のできる動物』等々、人間を定義する試みは幾つも存在する。
星矢は、実は常々『人間は飽きる動物である』と定義づけた哲学者や人類学者がいないのは 不思議なことだと思っていた。

たとえば、政界スキャンダル。
贈収賄に選挙違反に闇取引き。
政治家たちの悪行に最初は驚き腹立ちを覚えても、それが立て続けに発覚すると、人々は『ああ、またか』程度の感慨しか抱かなくなる。
やおい同人誌を初めて見た時には大きな衝撃を受け、あるいは胸をときめかせていた清純な乙女も、やがて『これで18禁だなんて、ちゃんちゃらおかしいわ』と豪語するヘビーユーザーに変わっていく。

その容姿とギャップがありすぎる氷河の奇行には 星矢たちも最初は驚いたが、今では彼がどんな踊りを踊ろうが、どんな子供じみた我儘を口にしようが、すべては『まあ、氷河だもんな』の一言で片付けてしまう。
氷河と瞬が初めて同衾した時には『赤飯を炊こう』と大騒ぎした星矢たちだったのに、今の彼等には 二人がイタさない夜の方が大事件なのである。

その昔、愛妻家で有名だった某国の国務大臣に愛人スキャンダルが発覚し失脚した時、
「なぜこんなことをしたのか」
という新聞記者のインタビューに、その大臣は、
「人間には飽きるということがあるのです」
と答えたという。
ことほど左様に、人間は飽きる動物、慣れる動物なのだ。

長く生きて経験を積めば積むほど、人は『初めて』を経験する機会が減り、新鮮な驚きを覚えることが少なくなる。
苦しみにも、悲しみにも、憎しみにも、怒りにも、喜びにも、人はいつしか慣れ、そして飽きるのだ。

だが、それは人の生きるための力であり、知恵であり、解釈の仕様によっては、それこそが人の成長であるとも言える。
ある環境に慣れてしまえないことは、つまり、その人間に学習能力がないことを意味する。
自分の経験、他人の経験を記憶し、その対処方法を身につけることをしなければ人は成長せず、成長しない人間は、それまで生きてきた時間を無駄にしていることになる。
瞬との性行為にいつまで経っても飽きない氷河のような特殊な人間もいるが、彼はそれこそ“おかしい”人間なのだ。

氷河の奇行に慣れ、戦いに慣れ、苦しみに慣れ、悲しみに慣れ、その乗り越え方を身につけ、更には死と向き合うことにすら慣れている星矢が、いつまで経っても慣れてしまえないもの。
それが『瞬の涙ながらの訴え』だった。
他人の泣き言など、普通は他のどんなことより先に無感動になるものだと思うのに、星矢はどうしても それにだけは慣れることができなかった。

してみると、『飽きる動物』『慣れる動物』という人間の定義は、必ずしも普遍的なものではなく、人によって違うのかもしれない。
星矢は、自らが考案した人間の定義を、自ら捨てることになった。

そして、彼は思い出したのである。
彼自身が、昨日、氷河の“おかしい”言動に出合ったばかりだったといことを。
「……氷河の奴、昨日、俺にガーゴイルズのサングラスをくれたんだ。これまで俺がどれだけ欲しいって言っても、『おまえには似合わん』の一言で無視してたのにさ」
「そういえば、俺にも 隠し持っていたコニャックを――」
言いかけて、瞬の耳をはばかった紫龍は、すぐに何気なく、
「高価な飲み物を俺にくれたな」
と言い直した。

自らの経験をよすがに 氷河の“おかしさ”に思い至ると、星矢たちは、これまで“おかしい”と感じていなかった他の“おかしさ”をも“おかしい”と意識することになったらしい。
星矢は、つい先程までとは打って変わった真面目な表情で、その事実に言及した。
「やりたい盛りだからなんだろうと思ってたけど……最近、氷河の小宇宙、すごくないか? 俺、時々、あれは沙織さんとタメ張れるくらいなんじゃないかって思うくらいなんだけど」
「そう言われれば――」

星矢だけでなく、紫龍もそのことには気付いていたのだろう。
彼は、彼の仲間たちにおもむろに頷いた。
聖闘士の今ある状態を、どんな言葉より どんな行動より雄弁かつ如実に物語る小宇宙が、以前とは違うのである。
氷河が“おかしい”のは――少なくとも彼に何らかの変化が生じたことは、疑いようのない事実だった。

「そうでしょ。氷河、変なんだよ!」
やっとその事実を認めてくれた仲間たちに、瞬が身を乗り出すようにして頷く。
頷かれて――だが、紫龍は、瞬へのリアクションに窮することになったのである。
氷河がおかしい。
その事実を認めることには やぶさかではないが、だからといって、氷河の仲間たちに いったい何ができるというのか。
その原因を究明しないことには、解決策を講じることもできない。
そして、氷河の“おかしさ”の原因を究明しようと思った時、最も効率的に氷河を詰問あるいは説得できるのは、他でもない瞬その人なのだ。

「で、おまえは俺たちにどうしてほしいんだ」
「これから、僕が氷河を問い詰めるから、星矢と紫龍には僕と一緒にいてほしいの」
「なんで」
そういう工作は二人が二人きりでいる時に行なった方が、氷河陥落に向けて瞬も様々な手管を使えるだろうに――と、星矢が思ったのは至極自然なことだったろう。
しかし、星矢のその考えは、片手落ちな考えでもあった。
二人が二人きりでいる場面で手練手管を使うことができるのは、なにも瞬に限ったことではないのである。

「二人きりだと駄目なんだよ。氷河はすぐに僕を押し倒してごまかそうとするんだもの」
「抵抗すりゃいいだろ。おまえ、氷河より強いんだから」
「星矢は、氷河に身体を触られたことがないから、そんなことが言えるんだよ! どんなに気を張ってても、氷河に触られたら、すぐに身体が溶けちゃうみたいな気分にさせられちゃうんだから。星矢もいっぺん、氷河に身体のあちこちを触られてみればいいんだ。いいとこ、30秒抵抗するのがやっとだから!」
「気持ち悪いこと言うなよ!」

確信に満ちて断言する瞬に、星矢は戦慄しないわけにはいかなかったのである。
そして、彼は知った。
そんな おぞましい仮定文を口にできるほど――氷河だけでなく、瞬も“おかしく”なっている この現実を。
どう考えても、この世界には重大な異変が起きつつある。
星矢は、その事実を遅ればせながら はっきりと自覚し、同時に、言いようのない不安を覚えた。






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