冥王ハーデスの望みを瞬が退けたのは、瞬にしてみれば大した意味はなく、人として当然のことだった。 少なくとも、瞬はそう思っていた。 冥府の王の望みは、瞬の身体を使って、腐敗した人類を粛清し、この地上を支配すること――であるらしい。 「そして、そなたは、世界の王となるのだ」 とハーデスは瞬に言った。 瞬は、だが、この世界に住む者たちがハーデスの言うように腐敗しきっているとは思っていなかった。 ましてや、自分の手が、与えられた命を懸命に生きている人々を傷付け、その命を奪うことなど、思いもよらない。 瞬は、争いも、人が人を力で支配することも支配されることも、望ましいこととは思っていなかった。 そもそもハーデスの言う“腐敗した人間共”をすべて粛清した世界を支配する王になったとして、その人間はいったい何が得られるというのか。 瞬の拒絶は当然のことだった。 瞬の価値観では。 しかし、ハーデスには瞬の拒絶が理解できなかったらしい。 人間という醜い生き物が消え去った美しい世界の王として君臨できる光栄を退ける理由は 臆病以外にはないと決めつけて、彼は瞬の尻込みを愚かなことと断じた。 曰く、『そなたは、このハーデスに選ばれた ただ一人の者』 曰く、『この地上で最も清らかな魂を持ち、この世界を支配するにふさわしい資質を備えている者』 曰く、『人間たちがすべて滅び去れば、この地上から醜い争いは消え失せる』 人間を否応なしに従えることに慣れている神にしては、ハーデスは瞬に対して親切だったと言えるのかもしれない。 そなたは余に特に選ばれた者なのだ――という彼の言葉も、存外本当のことだったのかもしれない。 ハーデスは、瞬に、 「余は、そなたの美しさを惜しむからこそ」 とまで言った。 だが、だからこそ、頑として神の申し出を拒み続ける瞬への彼への怒りは尋常のものではなかったのだ。 「余は、たった今ここで そなたの命を奪い、余の支配する冥界にそなたを連れ去ることもできるが――」 不吉に重々しい暗雲を背後に従えた黒衣の神は、蒼ざめた馬の背の上から瞬を見おろし、そして脅した。 「だが、それはすまい。そなたが美しいのも、清らかなのも、生きていればこそのことなのだから」 野を渡る風が、ハーデスの長い黒髪を宙に舞い上がらせる。 その時になって瞬は、この 死の国の王が非常に美しい男性だということに気付いた。 瞬の好みとは真逆の美しさだったが。 瞬は、つい先程まで、いつものように村の外れのこの野で薬草を摘んでいたのだ。 それが瞬の仕事で、瞬に生活の糧をもたらすものだった。 時刻は昼。 瞬の上にある空は青く広く、そして、瞬の周囲は光に満ちていた。 その瞬の前に突然現われた黒衣の男は、晴れた春の野を薄墨のような空気で覆い、冥府を支配する神の名を名乗った。 そして、地上支配という思いもよらない企みを瞬に持ちかけてきたのだ。 到底 尋常とは言い難い この状況で、神と言葉を交わすことができている自分自身を、実は先程から瞬は現実感を持って認めることができずにいた。 これはおそらく夢だと思う気持ちがあるからこそ、瞬はこの異常な事態に向かい合い続けていられたのかもしれない。 夢でも―― 一見涼しげな眼差しに酷薄な笑みをたたえている死の国の王は、恐ろしく感じられたが。 瞬の拒絶に不快を覚えたらしいハーデスが、神の前に かろうじて立っているような無力な人間の子供に、冷たい笑みを向けて言い募る。 「そなたを手に入れる者が余の他にいることは認められない。そなたに冥界の王から新しい運命を授けてやろう。そなたを手に入れる者は、望むことが何でも叶う。この地上を支配することも消し去ることも。そういう力を、余はそなたに与えよう」 そんな力はいらないと、もちろん瞬は思った。 それにしても、命や力を奪うというのならともかく、新たな力を与えるとは。 それが神の望みを拒絶した者への報復になるのだろうかと、瞬は疑うことになったのである。 「どうだ。素晴らしい呪いだろう」 「どうして それが呪いになるの」 瞬の当然の問いかけに、ハーデスは、自らの思いつきが楽しくてならないというかのように目を細めた。 「そなたは力の象徴になる。欲を持った人間たちは皆、そなたを手に入れるために、そなたの嫌いな争いを起こすだろう。そなたのために、人は憎み合い、傷付け合うのだ」 「……」 「そなた自身が争いの火種になる。そなたを使って余が為そうとしたことを、そうして、人間たちが余に代わって為してくれるというわけだ。欲にかられた人間たちは そなたを巡って争い、そして、最後に、あの見苦しい生き物たちはすべて滅んでしまうことだろう。余が手を下さずとも」 「人は……そこまで愚かではありません」 あまりにも思いがけないハーデスの企みを知らされた瞬にできたのは、ほとんど抑揚のない声で そう呟くことだけだった。 「そうであることを、そなたのために祈ってやろう」 そう告げるハーデスの声は、それが揶揄の言葉とも思えぬほどに皮肉の色をたたえていなかった。 黒衣の神の意図が、瞬には読み取れなかったのである。 「僕はそんな力は――」 『いらない』と瞬が言おうとした時には既に、ハーデスの姿は瞬の前から消えてしまっていた。 瞬の周囲にあるものは、昨日と変わらない晴れた空と春の野の緑。 鳥のさえずりも戻ってきている。 瞬は、自分が白昼夢を見ていたに違いないと思った――思わずにはいられなかった。 |