聖域が村に近いと言っても、それは同じ大陸にあるというだけのことで――いったん海岸に出て船に乗り、海路を使って聖域のある半島の港に入った場合のことだった。
海路でなら1日の道のりも、陸路を行けば10日はかかる。

願っただけではハーデスに与えられた力を使ってしまえない事実を知った瞬は、自分はアテナの許に行くしかないのだと覚悟を決めて、村を出た。
2、3日も旅を続けていると、瞬は、
『村の奴等を元に戻したら、すぐ追いかけるから』
そう言って村に残った星矢の身が心配になってきたのである。
瞬が星矢の身を心配することになったのは――心配できるようになったのは――聖域に向かう瞬の旅が順調すぎるほど順調なものだったから、だった。

ハーデスが瞬に与えた力を喧伝したのは瞬のいた村だけのことで、瞬が立ち寄る村や町は、そんな力を与えられた子供のことなど何も知らぬげに、平穏そのものだったのだ。
だとしたら、聖域への旅は存外に楽なものになるかもしれない。
噂が広まるより早く聖域に辿り着けばいいだけのことなのだ――と、瞬は思ったのである。
それが楽観的すぎる考えだったことに瞬が気付いたのは、旅も半ば、瞬が村を出て5日目に立ち寄った町でのことだった。

ある程度の大きさを持つ町は大抵、その町にある神殿の前の広場に、旅人や戦で家を失った者たちに宿舎として提供する建物を有している。
小額の金、物品、あるいは労働力を提供することで、旅人たちは そこに泊まり、食事を得ることがでることになっていた。
その宿舎の粗末な食堂で、瞬は自分の噂を聞くことになったのである。
ハーデスはどうやら、彼が与えた呪わしい力と その力を持つ者のことを、5大国の主だった神殿で そこに集う人々に同時に喧伝してのけたらしかった。

「5大国の王たちが協定を結んだらしい。王以外の者がその子供を手に入れるために抜け駆けを図ったら、その者がどこの国のどんな身分の者であれ、即座に厳罰に処する権利を与え合う――とかいう」
「協定を結びつつ、どの王も、自分こそが その子供を手に入れようと企んでるんだろ。意味のない協定だな」
「賞金もかけられてるって話だぜ。5人の王たちが、賞金・褒賞を競ってる」
「俺なら、支配者になりたいなんて望むより、毎日飢えないだけの食い物をくれと願うがな」
「それは既に手にしているお偉いさんたちだから」

かろうじて屋根と壁があるだけの建物のホールに置かれた10ほどの大テーブルのあちこちで、人々は ほとんど実のないスープを飲みながら、ごく最近この町に流れてきたばかりらしい噂話に興じていた。

「どんな子なんだ」
「そりゃあ、ハーデスと言えば面食いで有名な神様だ。神々しいほど綺麗なお姫様だろう。見れば一目でわかるだろうさ」
「拝んでみたいもんだな」
「いやいや、お姫様なんかじゃなく、15、6の普通の村娘だそうだ」
「俺は、10を出たばかりの男の子供だと聞いたぞ」

噂はあちこちの村や町からやってきた旅人たちによってもたらされ、その内容は錯綜しているようだった。
15、6の娘と10を出たばかりの男の子供では大違いである。
しかも、それらはどちらも事実に即していない。
だが瞬は、見ようによっては、自分がそのどちらにも見えるということを、(悔しいことではあるが)自覚してもいたので、旅人たちの噂話を耳にするや、すぐにこの宿を出ることを決めたのである。

顔を伏せ、急ぎ足で建物の出口に向かう。
開け放されていた扉のところで、前方を見ていなかった瞬は、食堂の中に入ろうとしていた男の胸に頭から突っ込むことになった。
「す……すみません……!」
顔をあげずに、瞬は彼に謝った。

瞬が無礼を働くことになった相手は、胸から下を見ただけでも、貧しい旅人ではなく、いずれかの国の兵だとわかる体格と出で立ちをしていた。
体格差があるとはいえ、この場を逃げ出そうと急いでいた人間に ある程度の勢いをもってぶつかられたというのに、彼の身体はびくともせず、その上、彼は 心臓の上に金属の胸当てのついた軽装とはいえ鎧と言えるものを身につけていた。
彼はただの旅人ではない。

瞬は一層深く顔を伏せ、彼の脇をすり抜けて建物の外に出ようとした。
その腕を、男に掴みあげられる。
「瞬」
そして、彼は瞬の名を口にした。

ハーデスに力を与えられた者の名を知る人間――渦中の人物の情報をそこまで掴んでいる人間、そして、本来なら貧民のための宿舎に足を踏み入れるはずのない人間。
彼は危険だと、瞬の中の何かが瞬に警鐘を鳴らしてくる。
瞬は混乱し、男に掴まれている腕を引き戻して、その場から逃げようとしたのである。
だが、その男は、掴んだ瞬の腕を放そうとはしなかった。

「逃げなくていい。瞬、俺だ」
「あ……」
その声が誰のものなのか、なぜすぐにその声の持ち主のことを思い出せなかったのか――。
恐る恐る伏せていた顔をあげた瞬は、そこに、2年前に村で別れた仲間の姿を見い出して、思わず泣いてしまいそうになった。

「アテナからハーデスの件を知らされてすぐ、聖域から探索に出たんだ。村に行ったら、星矢が、おまえは聖域に向かったと教えてくれたんで、すぐに追いかけてきた。無事でよかった」
懐かしい青い瞳。
その瞳が、2年前と同じように、瞬の姿を映し出している。

「氷河……!」
涙混じりの声で彼の名を呼び、瞬は氷河の胸の中に飛び込んでいった。






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