「……氷河と兄さんが読もうとしたのって、これかな、やっぱり」
青ざめた頬のまま、脱力したようにラウンジのソファに腰をおろした瞬が指し示した雑誌のページには、有人探査衛星で数日間たった一人で宇宙に漂っていた宇宙飛行士の手記が寄せられていた。
あの二人が タイムトラベルストーリーや異星人同士の接近遭遇小説に胸を躍らせていると言われるよりは納得できる記事ではあったが、それは決して万人の関心を引くようなものでもなかった。
正直かつ素朴に、星矢がその眉をひそめる。

「そんなの読んで面白いのか? 退屈だってこと以外の他に何にもないだろ。宇宙でも家ん中でも一人きりで放り出されたら」
星矢はそう考えるのだろう。
しかし、一輝と氷河はそうではない。
だから、彼等はわざわざ買ってまでそんな記事を読もうとしたのだ。

「氷河と兄さんって、もしかして似てるのかな?」
「似てねーだろ。あの二人って、寿司とボルシチくらい違うし。……いや、そうじゃないな。んーと、一輝はバター醤油味で、氷河は 薄塩味」
ポテトチップスの話をしているのではないのだが、二人の人間の相違を語ろうとする時、彼等を食べ物に例えるのが、星矢にはいちばんわかりやすい方法だったらしい。
食べ物全般を平等に愛している星矢には、それが、どこぞの神のように一方だけに肩入れすることを避けるための有効な対策でもあるようだった。

「本人は潔い日本男児を気取ってるつもりなのかもしれねーけど、一輝って、実は全然あっさりしてないんだよな。薄味じゃないっていうか何ていうか。で、氷河は、外見はバタくさいし、クール気取ろうとして失敗してる奴だけど、おまえや かーちゃんやカミュがいなかったら、ほんとはほんとに冷たい奴だろ。どっか厭世的で」
「片方は、本当は群れるのが好きなくせに、一人でいようとする男。もう一方は、群れるのは面倒だと思っているくせに、あえて群れの中にいる男でもあるな」

紫龍が、星矢のたとえ話に便乗して、二人の仲間の相違点を語る。
紫龍の言に得心した顔で頷いてから、星矢は、ふと考え直したように紫龍に問いかけた。
「それって、あの二人が似てないってことだよな?」
「へそ曲がりという点では似ているとも言える」
「あ、それは言えるかも」
今度こそ心から納得して、星矢はその顔に虚しい笑いを浮かべた。
そんな点で二人が似ていても、それで二人が仲良く・・・できるわけではないのだ。

二人のやりとりを それまで黙って聞いていた瞬が、どこか思い詰めた様子で重い口を開く。
「氷河はフィリッポ・リッピの聖母子像が好きなの。で、兄さんは尾形光琳。風神雷神図とか……竹梅図屏風なんかが好きみたい」
「食えるのか、それ」
一方は、清純と甘美な官能が混在した聖母の絵を幾作も残した、初期ルネサンスを代表するフィレンツェ派の巨匠。
一方は、大和絵的な描写の中に斬新な構図や画面展開を取り入れ革新的な独自の様式を確立した、琳派を代表する日本画絵師。
――であるが、もちろん星矢はそんな料理を食したことはない。

紫龍は、さすがに、それらのものが食べ物でないことを星矢に説明してやる気にはなれなかったらしい。
「全く傾向が違うな」
星矢への説明を省いて 瞬にそう告げ、瞬が彼の言葉に軽く頷く。
「ん。でも、フィリッポ・リッピは彼の聖母像のモデルとした修道女と駆け落ち騒ぎを起こした破戒僧で、尾形光琳も父の遺産で遊興の限りを尽くし、何人もの女性に子供を儲けた放蕩の画家でしょ。自分の人間的煩悩や欲心を素晴らしい芸術作品に昇華してみせたったていう点では共通してるし、作品にもどこか通じるところがあるのかもしれない」

呟くようにそう告げる瞬の声と表情は、妙に沈んでいる。
それは彼の兄と恋人が不仲なことを嘆いての憂い顔ではないようだった。――紫龍にはそう見えた。
「あの二人が似ていたとしても……。それで何か不都合でもあるのか?」
「……」
紫龍に問われた瞬は、何も答えずに黙り込んでしまった。
フィリッポ・リッピとオガタコウリンが食べ物ではないらしいことを察した星矢が、こちらは瞬の悩みは兄と氷河の不仲なのだと決め込んで、瞬を慰めにかかる。

「ほら、父親ってのはさ、娘が自分に似た男を彼氏にすると嬉しがるっていうから、一輝と氷河が似てるのなら、一輝は、おまえが氷河といることを喜んでるんじゃねーの?」
「星矢、無責任なことを言うな。あの一輝が、最愛の弟を自分以外の男に任せなければならない状況を喜んでいるはずがない」
「いや、そりゃそーだけど。でも、不幸中の幸いっていうか、死地に活路を見い出すっていうか、人間ってのはどんな不幸な状況に置かれても、救いや希望を見い出そうとする生き物だろ」
「今の一輝は、そんな“救い”に頼らなければならないほど不幸でもないだろう」
「そうかあ? 手塩にかけて育ててきた可愛いオトートを、あんなのに取られたんだぜ。不幸の極みじゃん」
「星矢、おまえ、言っていることが矛盾しているぞ」

紫龍に指摘されて初めて、星矢は自分の主張が本来の目的とは逆の方向に作用していることに気付いたらしい。
彼は瞬を慰めようとしていたのだ。
一輝が不幸なのでは、慰めにならない。
星矢は自分の迂闊に気付き、小さく舌打ちをした。
瞬が、「気にしないで」と言うように、微かに首を左右に振る。
兄が不幸なのだとしても、それが星矢のせいでないことは、瞬とてわかっていた。

滅多に仲間たちの許に帰ってきてくれない兄。
だが、それは、“たまには”帰ってきてくれるということである。
そんな兄に、瞬は、つい先刻尋ねたばかりだったのだ。
「兄さんは僕を好き?」
――と。
一輝は、突然そんなことを訊いてきた弟に軽く驚いたような眼差しを向け、
「馬鹿なことを聞くな」
と答えた。

兄らしい返事だと思う
そして、確かに馬鹿なことを訊いたと、瞬は自分でも思った。
瞬は、これまで一度たりともそんなことを疑ったことはなかった。
兄が手間のかかる弟を好きでいるのか嫌いなのかはともかく、自分が兄に愛され大切に思われていることだけは疑ったことはない――疑えない。

兄がいなければ、今の自分はいなかった。
生きていられたかどうかさえわからない。
そう確信できるほど彼に愛してもらっているのに、瞬はその愛に報いることはできないのだ。
瞬は、兄がそうしてくれたのと同じように、兄を守り庇うことはできない。
その力を有していない。
それが、兄に対する瞬の負い目だった。






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