希望の国

- I -







後に、ローマ帝国・五賢帝時代と呼ばれる時代。
プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスは、その五賢帝の三人目に数えられる皇帝である。

彼が帝位に就いた時、先代トラヤヌス帝の積極的な外征によって、帝国版図は最大となっていた。
元はテヴェレ川のほとりに生まれた寒村にすぎなかったローマは、東はアルメニア・メソポタミア、西はイベリア半島・北西アフリカ、南は北アフリカ・エジプト南部、北はブリテン島南部までを支配する、まさに世界帝国となっていたのである。
その広大な――広大すぎる――帝国を委ねられたハドリアヌス帝は、その治世を通じて帝国領土の防衛や、各地で起こる反乱の対処に明け暮れることになった。

その世界帝国の北辺が、ブリタニア(現在のスコットランド)である。
独立心の強いブリテンの諸部族たちは、ローマ軍の武力に一度は屈しても、力を蓄えては再起し、ローマへの反乱を繰り返し続けていた。
カレドゥニー族の反乱を鎮めれば、次はエピダイ族、エピダイ族を武力で押さえつければ、次はダルリアッド族が反乱を起こし、そうしている間にも、ケルトの諸部族がローマに反旗を翻す。

本国を遠く離れ この北の島に派遣されてきた兵たちは、自分の寝床を温める暇もないほど慌しい日々――しかも、その日々には命の危険が伴う――を送っていた。
そういった状況が、この北辺の地だけでなく、帝国の西でも東でも南でも起こっている。
ローマは方向転換を迫られている――と、自ら志願してこの北辺の地にやってきた百人隊長は、城砦の司令官用の私室で考えていた。

百人隊長といっても、彼は実質2000人を超える歩兵大隊の総司令官である。
20の百人隊から成る歩兵大隊の総司令官は、上位の百人隊長が担うのだが、彼はその中でも筆頭隊長だった。

今日のブリトン族との戦いでは、100人ほどのローマ兵が命を落とした。
僅か50人のブリトン族の奇襲に、2000のローマ兵で立ち向かい、敵を追い払うことには成功したのだが、ローマ軍はそれだけの犠牲を出したのである。
これを『勝った』と報告すべきか『負けた』と報告すべきか。
敵の死傷者の数がわからないだけに、彼は悩んでいた。
ブリトン族は、撤退の際に味方の死傷者をすべて 彼等の村に運び去るのだ。

幸いだったのは、仲間の退路を確保しようとしていたブリトン族の司令官を捕獲できたこと。
彼は足に怪我を負った仲間を逃がすことに手間取って、捕虜の辱めを受けることになったのだった。
ブリトン族の軍の司令官ということは、とりもなおさず、ブリトン族の王ということになる。
無論、世界帝国の歩兵大隊を任されているローマ屈指の名門貴族の家長でもある彼は、こんな辺境の地の蛮族の王など、皇帝が飼っているペットの猿ほどの価値もない存在だと思っていたが。

ともかく、ブリトン族の王を捕らえることができたのは幸運だった。
この王を懐柔できれば、これ以上の犠牲を出さずにブリトン族は再びローマの支配を受け入れるようになるだろうし、王の懐柔ができなくても、彼が人望のある王なら、王の命を惜しむブリトン族はローマに従わざるを得なくなるだろう。
それほどの男でなかったとしたら、派手な処刑を催せばいい。
それは、味方の兵を鼓舞し、敵の戦意を削ぐことに役立ち、ローマ本国に“勝利”の報告をできることになる。
ローマ本国はともかく、この島にやってきているローマ軍とっては 王の懐柔が最善の策なのだが、北の蛮族は はたしてそれだけの分別を備えているものかどうか。
あまり期待はできないと思いながら、彼は、ブリトン族の王を幽閉している牢へと足を運んだ。

ローマの歩兵大隊の司令官が身につけている磨きこまれた銀色の甲冑は勲章で飾られ、左脇に剣、その兜には派手な羽飾りがついている。
それに対し、ブリトン族の王は、武器と鎧を奪われ、膝上丈のチュニックを1枚 身につけているだけだった。
数ある歩兵大隊の1隊を任されているだけの、いってみれば一兵卒と、仮にも一国の王の この対比。
これが、世界帝国ローマと被支配国の立場と現状を如実に表している。

問題のブリトン族の王は、北方の戦士らしい金色の髪をしていた。
いかにも反抗的な青い目。
金髪はローマ兵の血で濡れている。
手足には大小の無数の傷を負っていたが、実戦で鍛え抜かれた身体は それ自体が鎧の役目を果たしているのか、彼は痛みも自覚していないようだった。
石の床に、見るからに立腹したような顔であぐらをかいている王は、ローマ軍の軍人からすれば北方の蛮族なのだが、ローマの有閑夫人たちが見たら、涎を垂らしてしゃぶりついていきそうな姿の持ち主だった。
しかも、若い。
共に捕らえられたらしい仲間の、こちらは黒髪の少年が、粗末な木製の寝台に腰をおろし、口をとがらせていた。

この見るからにローマへの敵愾心だけでできているような男を、懐柔するか、人質として利用するか、あるいは処刑するか。
その判断を、ブリタニア反乱鎮圧軍の司令官は しなければならなかった。
が、その前に、彼は、このブリトン族の族長に いつものことを訊いた。
敵を捕らえた時、彼が必ず捕虜に対して発する質問――。

「右の手の平に白い星の印がある少年を知らないか。名はシュン。違う名を与えられているかもしれないが、今 15、6のはずだ。顔立ちは少々女めいているところがあるかもしれないが、生きているなら たくましい男になっているはずだ」
その少年を探すために、彼は戦い続けてきたのだ。
どこにいるのかわからない“シュン”を探して、彼は、東のアルメニア、西はイベリア半島、南はエジプト、そして、北のこのブリテン島――と逃亡奴隷が逃げ込みそうな辺境の地ばかりを選んで戦いを続けてきた。

「白い星?」
不快そうに、ブリトン族の王が眉をひそめる。
胆力はありそうだったが、やはり若い。
こんな若い男を王に戴かねばならぬほど、ブリタニアの諸部族は勝ち目のない反乱で多くの人材を失ってしまったのだろう。
辺境の地の小国の独立を守ることが、そんなにも――多くの命を懸けるほど――大きな意義のあることなのか――。
大国ローマの名家に生まれた彼には、正直、ローマに反乱を企てる者たちの気持ちがわからなかった。

世界の一部、大国の一部に属する者にすぎなくても、自らの矜持を保つことができるなら、人は皆独立した個人である――というのが、彼の考えだったから。
そういう考えを持つことができるのは、自分が生まれた時から一定の権利と自由を与えられているローマ市民だからなのかもしれないと思わないでもなかったが、現に彼はローマ市民なのだから、ローマ市民の目で世界を見ることしかできなかった。

「知らん」
ブリトン族の王が、ぶっきらぼうな答えを返してよこす。
「そうか」
期待していたわけではなかった。
行方の知れぬ弟を捜し続けて こんな北の果てまでやってきたが、彼はこれまで その質問を発しては何千回もの落胆と失望を味わってきた。
それでも諦めることができないのは、既にそれが彼の生きる目的になってしまっているからなのかもしれない。
今 彼が恐れていることは、むしろ、何者かに“シュン”の死を知らされることの方だった。

「そのツラでは、ローマに従うつもりはないようだな」
シュンを知らないのなら、ローマに反抗的な蛮族の王など、さっさと処刑してしまった方が面倒がなくていいのかもしれない。
そう考えながら、彼は じめついた石牢をあとにした。






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