成人した男が5、6人横になればそれでいっぱいになる牢から出されたシュンに与えられた部屋には、シュンが つい先刻までいた空間5倍以上の広さがあった。
そして、司令官の私室より贅沢な調度が置かれていた。
ローマ人が人間と認める者のための――つまりはローマ本国の貴人のための――部屋なのだろう。
磨き込まれた花崗岩の床、シュンが5人は眠れそうな大きな寝台、その他に寝椅子や大きな卓があり、まもなくそこにはパンや果物、調理された肉料理や葡萄酒までが運ばれてきた。

シュンには訳がわからなかったのである。
逆ならわからないでもなかった。
こういう待遇を受けるのがヒョウガなのであれば、納得もいく。
ローマ人は鼻で笑うかもしれないが、ヒョウガは幾人もの英雄を出したブリテン島屈指の名家の出で、ブリトン族だけでなく、このブリテン島全域を支配しようと思えば、それも許される伝統ある王家の一員なのだ。
だが、シュンは、ヒョウガに愛されているだけの一介の孤児にすぎない。
ヒョウガと共にあるのでなければ、ローマ人には何の利用価値もない無力な――それこそ獣ほどの価値もない生き物のはずだった。

一個人としての自分にどんな利用価値があるのだ――と不審に思い、シュンが思い至った考えは、あまり――非常に――不愉快なものだった。
シュンは、噂に高いローマの都の人倫の乱れを思い出したのである。
賢帝と言われているハドリアヌス帝でさえも、アンティノウスという寵童を異様なほど偏愛し、重臣たちより彼の意見を重んじているという。

パンとサーカス。
生産的なことはすべて被支配国の民に押しつけ、自らは何も生まないローマ人が欲するものは食べ物と娯楽だけ。
まさかとは思うが、あの司令官は、ブリトン族の王の恋人を性的玩具として利用するつもりなのではないかと、シュンは疑ったのである。
あの司令官はそういう趣味の持ち主には見えなかったが、腐りきったローマで一軍の司令官の地位を保つためには、軍功をあげることとは別に、高い身分の者との繋がりを保ち続ける必要があるのかもしれない。
あの司令官は、ブリトン族の王の愛人は有力貴族への賄賂に使える――とでも考えたのではないか。
ローマ宮廷の腐敗振りを考えれば、それはありえないことではない。

自身の想像にぞっとして、シュンは両手で自分の身体を抱きしめた。
ヒョウガとすることだから、あの行為は美しく快いのである。
つまりは、自分が愛し、愛されていると信じられる相手とすることだから。
ヒョウガ以外の人間にそういう目で見られることには耐えられない。
ローマの貴族たちは皆、豚のようにぶくぶくと太り、たるんだ顔に白い粉をはたいて、醜い顔を更に見苦しくしていると聞く。
そんな輩に玩具として扱われることなど、ブリトン族の王に愛されている者の誇りが許さなかった。

「僕は面食いなんだから!」
自身の考えを中断させるために、シュンは声を発して、自らの怒りと不安を消し去ろうとした。
部屋に人の入ってくる気配があり、シュンは続けて口にしようとしたローマ人への罵倒を途切れさせることになってしまったが。
人の耳をはばかったわけではない。
自分の品格を落としたくはないから、だった。

「シュン様」
「何か用 !? 」
それでも対応の声は険しいものになる。
平生ならここで己れの未熟を反省するところだったのだが、今のシュンにはそうすることができなかった。
その時間と余裕が与えられなかった。
噛みつくような答えを返してから、そこにいるのが奴隷でも召使いでもなく、あの司令官の従卒だということに気付いたせいで。
――つまり、ローマ人である。

なぜローマ人が野蛮人の孤児に敬称をつけるのかと、シュンは彼の物言いを訝った。
そんなシュンに、略式とはいえ軍装をしたローマ兵が恭しげに腰を折る。
「その みすぼらしい服をお脱ぎください。麻など農民が身につけるもの。シュン様にはシュン様にふさわしいものをお召しいただきませんと」
「ふさわしいもの? あの司令官は、いったい僕を何様にするつもりなの。ブリトン族の王の恋人という地位より高い地位が この世にあるとは思えないけど」

挑むように反抗的な口調で、シュンはローマ兵に問い質した。
野蛮人にそんな口をきかれたなら激昂するに違いないと思っていたローマ兵は、シュンの案に相違して、慇懃な態度を崩さなかった。
彼は、むしろ嘆きめいた表情をシュンに向けてきた。

「シュン様は司令官の弟君です。右の手に白い星の痣があるが何よりの証拠。あれはアウレリウス家の男子特有のものです。あなたは、1歳になるかならぬかの時に、司令官の邸にいた奴隷に連れ去られた将軍の弟君に相違ありません」
ローマ兵の手には、絹の衣装が捧げ持たれている。
そんなものを身に着けてブリタニアの森の中を走り回ったら、その服はすぐにかぎざきだらけになるに違いない。
彼が自分に着せようとしているものには目もくれず、シュンはローマ兵に問い返した。

「僕が……あの司令官の?」
馬鹿げた話だと、シュンは思った。
ブリトン族ではないにしても、自分はブリタニアの民のはず。
汚れ腐りきったローマ人の血など、この身には一滴も流れていない。
だいいち、あの司令官は ブリトン族の王の恋人にどこも似たところがないではないか――と。

「そんな出まかせで騙して、僕をローマに送るつもり? あの将軍は、僕をどこぞのお偉いさんへの賄賂にでもしようという魂胆なのではないの?」
「司令官はそんなことをする必要はありませんよ。司令官は、元老員議員も数多く輩出しているアウレリウス家の家長です。皇帝以外人間の機嫌を取り結ぶ必要はない」
シュンの考えは、彼には突飛に過ぎ飛躍しすぎた妄想としか思えなかったらしい。
そして彼は、アウレリウス家の一員がそんな考えを抱かねばならないほど、シュンが野蛮人の国で辛酸を舐めてきたのだと決めつけて、“名門アウレリウス家の家長の実弟”にいたく同情したようだった。

「ローマから遠く離れた野蛮人の国で、これまでさぞかしご苦労なさったことでしょう。ですが、もう大丈夫です。将軍は、シュン様のおぞましい過去につながるものはすべて消し去るおつもりですし、シュン様はローマ屈指の名門アウレリウス家の一員として、これからはすべてのローマ市民が羨むような暮らしができるようになるでしょう。そうなさらなければなりません」
シュンの未来はそうあるべきだと信じているような兵の眼差しに、シュンは気圧けおされた。
そして、呆然とした。

自分にブリトン族ではない父と母が――おそらく生きてはいないのだろうとは思っていたが――いることは、シュンとてわかっていた。
数年前に亡くなったヒョウガの母は、自分の息子が見知らぬ子供を拾ってきた時、ブリトン族の中にその両親を探し、結局見付けることができなかったのだから。
住民がやっと1万を超える程度のブリトン族の村で、前王の妻の指示で為された捜索で取りこぼしがあるはずがないのだ。
それでもシュンは、見付からなかった自分の両親はブリタニアのいずれかの氏族に属する人間であったものと信じていた。
他の可能性など考えたこともない。

シュンは、自分が これまで仇敵と憎み蔑んできたローマ人であることを、自分がヒョウガの敵の将の弟だなどという たわ言を、到底信じる気にはなれなかった――信じたくなかった。






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